2024 11,24 03:14 |
|
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
|
2007 05,23 23:40 |
|
今日は何を書こうかなあ・・・。
この前の続き、5歳の頃でも書こうかな。 5歳の頃、私は明るく楽しい、といった思い出は一切無い。 妹と庭先で、ままごとをよくしていたのを思い出すが、これが唯一の慰められる記憶か。 その頃の我が家では、まだまだ祖父の酒乱は続いていた。 幼稚園から帰り、家に上がろうとして靴を脱ごうとしたら 「脱いではいけない!」 と言う母親の声が。よく見ると、玄関の上がり口には、割れたガラスが一面に散乱していた。 母はまだ幼稚園に行ってないすぐ下の妹を抱いて、離れにある物置小屋から私に声を掛けたのだ。 「靴を履いてこっちに来なさい。」 と言う。まだ家の奥からおじいさんが暴れている物音がした。 しばらく収まるまで、母達とそこで隠れていたものだ。 こういう事がしょっちゅうあった。 それ以来、家に上がる時、靴を脱ぐ前に「そこは安全か、どうか」確かめる癖がついた。 ある日、その頃珍しかった「ボンカレー」が、食卓に上った。 私はこれを食べるのが物凄く楽しみだったのだ。 その頃はまだ、丸いちゃぶ台で御飯を食べていたが、私がいざ食べようとした時、祖父が酔った勢いでやって来て、ちゃぶ台を足でひっくり返したのだ。 もう、ほとんど「巨人の星」状態・・・。 私達はビックリして、火が点いた様に大泣きをしたのだ。 その時漠然と思ったものだ。 「私がこうして楽しみにしている物を食べるのは、とんでもない贅沢なんだ。」 こうして私は、あらゆる物を「止める」事ばかり、引き寄せた。 それで「私にはどうせ無理」とか「私は手に入らない」という事を、刷り込んでいった。 これによって、私は「あきらめる」事を身に付けた。 だからこそ、それを払拭したくて私はあらゆる努力を重ねたと思う。 そして、このような「不可抗力」もあるのだと知り、それに備える為にも「忍耐」したと思う。 このような出来事が無ければ、私にはもっと「忍耐」が足らなかっただろうね。 ちなみにこの時ひっくり返されたちゃぶ台は真っ二つになり、それから「ダイニングテーブル」に代わったのだ。 長年使っていたちゃぶ台はこうして世代交代したのだ。 このテーブルは今もなお、実家で現役なのである! もう30年以上、使ってるよ。物持ち良過ぎ!てゆうか単なるケチ!すげえな、おやじ・・・。 しかしこの出来事は勿論、カルマの清算という意味もあった。 私は過去世で繰り返し、山賊や海賊をし、人の物を奪ってきた。 その立場を味あわさせられただけである。 たかだかボンカレーぐらいで済んでよかったのだ。あはは~。 そして更に事態は進展する。 母は祖母に「他所にうちの事を言うんじゃない。」と口止めされており、それを真に受けていたが、いささか我慢が出来なくなったのだろう。 とうとう父に打ち明け、「家を出よう」という事になった。 私達姉妹を連れ、家を出た先は同じ町内にある父の実家だった。父は婿養子なのだ。 実家と言うのは、先日のブログでも書いた、あの性格の悪いおばはんの所だ。 ほんの一週間程の事だと思うが、居心地の悪さや遠慮をしていた事、肩身の狭さなど、今でもはっきりと覚えている。 何よりいつもと違うコースの幼稚園バスでの送り迎えが、子供心にも恥ずかしかったからだ。 みんなから「あんたバス間違えてるよ」と言われていた。 でも私は何も言えず、それにこのバスに乗らなければならない理由なんか、みんなに言いたくなかった。 でも天真爛漫に育った子のなんと残酷な事か! 無慈悲にも「なんであんたこのバス乗ってんの?」と聞いてくる。しつこく・・・。 ホント「放っておいてくれ」と言いたかった。 今じゃ、ぺらぺらと何でも喋れる私。 何と、ありがたい事か!営業をやっておいて本当によかった! 言いたい事を堂々と、誤解されずに、キチンと伝える。それは素晴らしい事だ。 話術に天分なんてない。それは「訓練」の賜物なのだ。 私は逃げずに避けずに通って来てよかった。 子供の頃は親から放っとかれ、友達もなく、一言も喋らないで過ごす事など珍しくなかった。 でも心の底ではいろんな自分の思いが、どろどろと渦巻いていた。 でも表現する術を知らなかったのだ。 だから私は言いたい。「子供と会話して!」って。 子供は大人が教えなければ、分からないからだ。 私が小さな頃に経験した苦しみを、どなたにも味あわせたくない。 何度も言うが、子供を守れるのは親しかいないのである。 PR |
|
コメント |
コメント投稿 |
|
trackback |
トラックバックURL |
忍者ブログ [PR] |