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2006 08,16 20:39 |
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実は先週、義母の命日を迎えていた。
今日はこの事について書こうと思う。長いですよ~! 義母は、私達が離婚する前年(97年の春)、子宮ガンである事が発覚した。 ガンが発見された頃には、すでに末期の状態で、手の施しようがなかったらしい。 長男である前夫は、それが受け止められず狼狽していた。 当の本人は 「仕方ないね。今更言ったって・・・」 と静かに受け止めていた。そんな義母に義父は献身的に世話をしていた。 夏になり前夫は同窓会に出席し、看護士をやっているという女性と再会し、深い仲になった。 前夫にしてみれば、わらをも掴む思いだったのだろう。 絶望的だ、と言われた母を看護で何とか出来るのではないか・・・と。 ところが、その女性にそこをつけ込まれたのである。 「あんたの所為で離婚したのだから、責任取ってよ」 となった訳である。 人の良い前夫はそれを真に受け、でも私に慰謝料を払いたくないので「女がいる」という事は伏せて、私に別れを迫って来たのだ。 私は女がいる事に薄々気付いていたが、以前から前夫との生活に疲れ果てており、何もかも嫌気が差していた。 そんな時にまだ幼い9歳のかずまに 「僕達の為に我慢しないで。」 と言われたのをきっかけに離婚を決意したのだ。 皮肉な事に、結婚したのもかずまがきっかけだが、離婚もそうである。 離婚の前にまず別居しようと思っていたが、ちょうど子供達の冬休みと重なった。 家を出る前、ちょうど退院し自宅で療養していた義母に電話を入れた。 随分迷ったがそれでも離婚を決めた、という事を報告した。 「本当はまだあの人の事を好きなんだけど・・・もう頑張れない・・・」 と泣く私に義母は優しく 「あんたは10年間よくやったよ。あんな馬鹿息子のために尽くしてくれた」 と言ってくれた。 「ありがとう、お義母さん。ほんとはこんなお義母さん置いて出て行くのは忍びないんだけど・・・。酷い嫁でごめんね、ごめんね」 そう言って泣く私に、義母は笑いながら 「ははは。あんたが居たからって私のガンが治る訳じゃなし。 心配しなくていい。おとうさんが面倒見てくれるから私はそれだけで幸せだ。 それよりもあんたは自分の子供の心配をしなさい。あんたはまだ若いんだから、いくらでもやり直しが出来る。しっかりと育てるんだよ」 と言ってくれた。 この時の義母の慈愛に満ちた言葉はいつまで経っても忘れられない。 しかし、この電話が今生での最後の別れとなった。 その後2週間の別居の後、年が明けた1月8日に離婚した。 その頃、前夫が付き合っていた女性は義母につきっきりでついていたらしい。 しかし義母は頑として新しい女を拒んでいた。世話をさせなかったのである。 離婚して間も無く、S病院に再び入院した事を聞いた私は子供達を連れて見舞いに出かけた。 ところが。「橋村ですが・・・」と名前を告げると怖い顔をして婦長が出てきて 「そんな人うちには入院してませんよ!!帰ってください!!!」 と、物凄い剣幕で追い返されたのだ。 後で前夫が告白したが、これは女が婦長に何やら吹き込み、 「こういう女が来たら追い返してくれ」と頼んであったらしい。 私が帰った後、婦長が病室を訪れその女に意気揚々と 「今、追い返したから」と報告していたのを、義母が聞き逃さなかった。 「何だってえ?何の権利があってお前はそんな事を!私はあの子に会いたかったのに!!ひどい!」 と涙を流して怒ったらしい。その怒りはそんな女を連れてきた前夫に向けられ 「いいかね!?お前達を死ぬまで許さないからね!お前なんか死ねばいいんだ。お前なんか産むんじゃなかった。お前が代わりに癌になればいいのに!!お前が癌になれ!!!」 と、本当に死ぬまで言い続けたらしい。8月に亡くなるまでずっと! きっと前夫には何故母がそこまで怒るのか分からないだろう。 私にも「だってさあ、素人のお前や親父が看護するよりプロにやってもらった方がいいだろう?」とシャアシャアと言ったのだ。 義母はオイソレと容易く人に心を許す人ではない。 まして、この女のせいで・・・と思っていただろうに。 義母はとうとう亡くなるまで彼女に指一本触らせなかった。勿論息子にもだ。 そして何かにつけ、息子である前夫をなじり女を罵り 「それに引き換え、ひでみは可哀相に!子供三人連れて苦労しているって言うのに!」 と私を思い、泣いていたと言うのだ。 「オレさあ、もう参っちゃったよ」という前夫には義母の気持ちなど分かるまい。 その年の8月。当時夜中に働き昼に寝ていた私。 朝10時ごろ眠りについたが、11時頃何故か突然悲しいような寂しいような気持ちに襲われ、止め処なく涙が流れてきた。 私は、自分の涙で起きてしまった。 ひょっとして義母が亡くなったのでは・・・と思っていると、間も無く前夫から電話があり、やはり義母が亡くなったとの事。 葬式の会場は何処かと聞くと 「来てもらっては困る」と言われ電話は切れてしまった。わたしは深いショックを受けた。 これについても後で前夫に聞くと、例の女がまだ籍も入れてないのに 「私が次の女房だ」と言わんばかりに葬式で采配を振るっていたらしく、この女の存在を知らない私が葬式に来たら、私を傷つけるのではないかと思った親戚が配慮させたと言うのだ。 私は親戚からも可愛がってもらっていたし、義母が誰よりも私に会いたがっていたのも、どの親戚の人も知っていた。 なので前夫は親戚中からも 「まったくお前が馬鹿なばっかりに。一番来て欲しい人が来れないで、居なくて良い奴が居るんだから。これもみんなお前の所為だ。」 と口々に罵られ、 「お前の葬式にしてやろうか」とか「お前が代わりに死ね」とか、葬式のみならず、初盆や一周忌までこうして皆から罵倒され続けたというのだ。 「オレはずーっと針のムシロだったよ。お前の所為でさあ」と私に言い、更に 「お前どうやってオレの両親や親戚に取り入ったんだ?」とぬかした。 私はただ笑って答えなかった。答えた所で分かるまい。 さて。葬式に呼んでもらえなかった当時の私は意気消沈していた。 訳が分からず、自分が情けなくて、悔し涙を流していた。 その日はとうとう一睡も出来なかった。 当時はアパートにすんでおり、玄関の横に台所があった。 夕方になり、そろそろご飯でも作ろうと台所の方に目をやると・・・。 なんと!義母が玄関に立っているではないか!!! しかもはっきりと見えている。義母はまるで観音様のように後光が差しており、穏やかな微笑を浮かべている。 赤茶のサマーセーターとこげ茶のパンツをはき、愛用の時計をはめ、お気に入りのイヤリングとネックレスをつけて、オシャレが好きな真に義母らしい格好で現れた。 私には分かった。義母はもう安らかな気持ちで何もかも悟っているのだと。 そして葬式にも呼んで貰えなかった私をこうして慰めに来てくれたのだと。 私には充分だった。私は嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。 義母は10分ほどそこに居たと思う。 私は義母に安心してもらいたいと思い、義母が見ている中、涙を流しながらも晩御飯の仕度に取り掛かった。 義母はその様子を見ると安心したのか消えていった。 次の日も義母は微笑を湛え、やはり10分ほど居た。 義母は私を目で追い、私のする事に「うんうん」と相槌を打ち、優しく笑っていた。 こうして私は義母とのお別れをする事が出来たのだ。 私は義母の為に一週間ほど影膳を据えた。 あやかが目覚めた後、義母の気持ちを改めて聞き、どんなに慰められ救われた気持ちになったか。 生前の義母も只の人間。完璧な人ではなかったし、時には大喧嘩になる事もしばしばだった。 しかし、この人に出会えて良かった。実母には決してしない本音の会話をこの人には出来た。 血は繋がらないが、確かに私達は親子だった。 それだけの深い関わりを持てたという事に私は感謝している。 誰かに義母の事を理解して欲しくてここに書いたけれど、ここまで付き合って読んでくださった皆様に感謝です! PR |
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コメント |
橋村さん 私は十分理解していますよ。素晴らしい方に出会えて今の橋村さんがあるんですよね。
【2006/08/1623:19】||車屋の兄貴#990eca12ce[ 編集する? ]
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橋村さんが魅力的な理由が少し分かった気がします。
微力ながら義母様の成仏を心からお祈りさせて頂きます。 |
ありがとうございます!義母は今私の右隣にいますが、こうして理解していただいて、そして祈ってくださっている事を、とても喜んでいますよ。私は子供と共に、たくさんの方々に育てていただきました。そして今もこうしてお客様に支えられている事に感謝してます。
【2006/08/1720:03】||はしむら#99af3740a7[ 編集する? ]
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今の橋村さんは無かったですよね!?
【2006/08/1909:44】||猫村#5774697e93[ 編集する? ]
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私達はこうしてお互い影響を与え合っているのですもの。
【2006/08/1915:48】||はしむら#99af3740a7[ 編集する? ]
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