こころの癒しブログ
ヒプノセラピストをやっているバツイチ母さんの日常。前世や霊、子育てや猫、なんでも書いてます。
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プロフィール
HN:
橋村 秀実
年齢:
55
HP:
心の癒し
性別:
女性
誕生日:
1969/07/25
職業:
ヒプノセラピスト
趣味:
猫を愛でる、アニメ鑑賞
自己紹介:
バツイチ母さんです。子供は三人。ネコは三匹。最近、彼氏のアパートで同棲中。
長男→かずま(21才)二年前 小説家を志し、東京に行く。ただ今、絶賛行方不明中!
長女→あやか(19才)今年一月末まで、チャネラーとして母を補佐。今はただの普通の女の子に戻りました!只今、自宅にて 一人暮らし。就職して、営業しています!
次男→すぐる(17才)只今 生意気盛りな高校ニ年生。昼はバイト、夜は夜間定時の高校と、頑張り中!三月より、父親と同居中。
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2006
09,14
23:45
義父
CATEGORY[前夫]
もうすぐ敬老の日だね。
今、あやかとすぐるは義父に宛てた手紙を書いている。
一人暮らしをしている義父を慰めるために、「手紙を書いてやって欲しい」と前夫が電話でお願いをしてきたから、という事もある。
「何て書こう・・・」「何て書いたら良い?」
二人で無い頭を使って、考えている。
さぞ、脳みそもフル活動だろう。
義父も今年で73歳になる。
思えば義父も苦労だらけの人生だった。
一体義父の人生は何だったのだろうか。
間違いなく「寂しい人生」だったには違いない。
義父は浜松市近隣で生まれた。
この家は昔々の豪族でもあり、庄屋として代々続いた大百姓である。
義父はこの家の末っ子でありながら、家系を意識し、それ故、誇り高い人でもあった。
若い頃は「石原裕次郎」に似た甘いマスクで、かなりモテていた為、女に不自由した事はなかったようだ。
しかしお見合いで出会った義母と大恋愛を経て、結婚。
それからは妻一筋の良き夫であったらしい。
そしてその頃浜松で盛んだった「織や」を始め、大儲けしたのだ。
使用人を何人も雇い、庭には一つ何十万、何百万もする大きな庭石がゴロゴロ置いてあるようなそんな贅沢な暮らし振りだったようだ。
そんな中、長男である私の前夫が生まれたのである。
忙しい義父母に代わってじいやがついており「坊ちゃん、坊ちゃん」と可愛がられたのだ。
ところが。一方で義父には大変なギャンブル好きという一面があった。
夜な夜な賭けマージャンにふけっており、それがあっという間に膨大な借金に膨れ上がってしまったらしいのだ。
しかも義父のプライドの高さ故、「払えない」とも言えず、結局闇金融にまで手を出してしまったようだ。
また義理堅く見栄っ張りという性格がつけ込まれ、頼まれると「イヤ」と言えず無用な買い物をさせられたりもしたそうだ。
庭石もその一つだったようである。
そんなこんなで前夫が12歳の頃、家は倒産をし、一家は夜逃げをしたのだ。
それからは執拗な金融業者の取立てとの闘いであった。
その頃の一家の暮らし振りは悲惨そのもので、前夫はよく語っていたものである。
前夫が高校を卒業すると、「普通の仕事をしていたら借金が返せない」という理由でパチプロを始めた。
違法行為を繰り返し荒稼ぎをしたのである。
そして26歳には何千万とあった借金を完済したのだ。
ちょうど「そろそろマトモな暮らしに戻ろうか・・・」と思っていた頃、私に出会ったのだ。
先日のブログでも書いたが、義父母は若かった私を非常に喜んで迎え入れてくれた。
親の愛に飢えていた私は、実の親以上の愛を二人に注いでもらい、感激したものだった。
しかし私達の結婚生活で影を落としたのは、前夫の荒稼ぎしていた頃の派手な生活と浪費癖が忘れられなかった事だ。
そして小さな頃に何でも肯定してくれたじいやの甘やかしである。
愛情から義父母が厳しく叱れば叱るほど、ソッポを向いてしまった。
両親がどんなに正しい愛を注いでも、受け取っている本人が正しく受け取らなければ、意味は無い。
勿論、彼には私の叫びも届かなかったのである。
私達の10年間の結婚生活はまさに義父母にとっても、再び取り戻した幸せのひと時だったに違いない。
後は先日のブログにも書いたが、義母が末期癌に侵され、義父は献身的に世話を焼いたのだ。
人見知りをし、他人を信用しにくい義母の為に義父はつきっきりで看病をし、何から何までやっていた。
最愛の妻を亡くしてからは、生活苦から借金を重ね、事故に遭い、良い事が一つも無い、そんな暮らしをしている。
離婚後、何年か経ってから私が義父に電話を入れたことがある。
私が「お義父さん」と言うと、義父は
「まだ『おとうさん』と呼んでくれるのか」
と、電話の向こうで泣いていた。
私はそれまでの感謝を伝え、困窮する暮らし振りについて聞いていたので、心配から
「**のりさん(前夫)と同居したら?」
と意見を言った。そうしたら
「あいつと暮らしたら俺を当てにして家の事を何もしなくなるだろう。
俺もこんな年になってもまだ息子の面倒を見るなんて絶対イヤだ!」
と言うではないか。私は思わず大笑いしてしまった。
この人は本当に何もかも知っているのである。自分の息子の良い所も悪い所も。
だから私もこの人の言う事を聞く事が出来たと思う。
伊達に苦労はしていないと思ったのである。更に義父は続けて言った。
「ホントにお前には済まない事をしたなあ・・。お父さんの育て方が悪いばっかりにお前にこんな苦労をさせて。」
と言うのである。なので
「お義父さん、もう40過ぎた息子の為に謝らないで。あれはもう本人の責任でしょ?それに私も苦労ばかりじゃないんだよ。毎日楽しいから安心してね。いつか私も再婚したいけど、それでも私にとってお義父さんは「お父さん」だし、子供達は孫に代わりは無いんだからね。」
と伝えた。義父はそうか、そうかと嬉しそうに聞いてくれていた。
義父は非常に温かい人柄である。そして義理に厚く、責任感が強い。
しかし素晴らしい資質を持ちながら、長所が裏目に出てしまった。
そこに見栄っ張り、プライドの高さが加担してしまった。
この人の人生は私にとってもまさに学びの宝庫でもある。
そして義父の人生を無駄にはしたくない。
私は義父を一人の人間として尊敬し、好きだ。幸せになって欲しいと思っている。
実の両親の面倒は見たいと思わないが、義父の面倒は見たいと思っている。
でも、今は出来得る最大限の事をしよう。
と言う訳で、私も手紙を書こうかな。
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2006
09,04
19:52
壁紙
CATEGORY[前夫]
先日あやかが空けた大穴を、新しい壁紙で覆ってしまおうと、似たような模様の壁紙を買ってきた。
本当は大分前に買ってあったのだが、面倒でヤル気が出るまで放っといたのだ。
で、今日とうとう壁紙を張ることにした。
本当は全部キレイに張り替えてしまえば良いんだろうけど、それはお金も労力も要る事なので、一部だけにする。
アンポンタンなライちゃんが来てからと言う物、家の角という角は皆ボロボロになってしまった。
パクまで真似して壁をガリガリやる始末だ。
とりあえず、大穴とこの角を張らないとね。
この壁紙は裏面に糊が付いており、水に濡らすと壁にくっ付くようになっているのだ。
でもなかなか難しい。
ヘラでシゴイて伸ばしていくと、よれたり、斜めになったり、と思うように行ってくれないのだ。
前もやった事があるが、その時も上手くいかなくて、職人さんというものは大したモンだなあと思ったものだ。
本当は旦那さんがいたら、これは男の人がやる仕事なのだろうか。
しかし、私は前夫にしてもらった事は無い。
二段ベッドを買った時も、組み立て式の大きな本棚を買った時も、口では
「もうすぐやる」「気が向いたらやる」
と言い続け、結局私が待てずに自分で組み立てた。
テレビの配線もビデオの配線も私がやった。
照明の取り付けも引越しのかたずけも、みんなみんな私がやった。
今思えば、母子家庭になる準備をしていたのかもしれない。
だから、いざ本番、母子家庭になっても一つも困らなかった。
でも。もし。旦那さんが良い人で何でもやってくれる人だったら?
私は今の私にはならなかっただろうね。
きっと、もっと依存心の塊で何でも旦那様をアテにして、でもそれを当たり前だと思っていただろう。
感謝もなく、そのうち不平不満が出ていた事だろう。
「もっと、こうしてよ!」
と、大威張りする内弁慶になっていたに違いない。
やはり、私は私で良かったと思う。
そして前夫だったから、今の私にしてくれたのだろう。
お陰で強くたくましくなったと思う。
何にも怖くないぞ!
お暇な方、ツギハギだらけの我が家の壁を見に来てくださいね!
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2006
08,29
22:14
夢
CATEGORY[前夫]
今日は変な夢を見た。
前夫が傍におり、ニコニコと穏やかに笑っているのだ。
どうやら夢の中では夫婦に戻っているよう。
私は非常に穏やかに前夫と話している。
それはそれは楽しそうに・・・・・???でも何か変だ。
話が噛み合わないのだ。
やはり夢の中でも、価値観のズレは相変わらずで、「幸せ」とか「生き方」に関して全く埋まらない。
で、現実の今でもそうしているように、適当に話しているのだ。
そのうち私の心の中で思うのは
「こいつと話すの面倒くせ~!」と言うことだ。
私の夢の中では、前夫とよりを戻すところ、という設定のようだ。
私にはもはや愛はない。
ただ前の私と違って、たとえ前夫とでも表面上は上手くやっていけるだろうという事だ。
しかし価値観の違いは決定的である。
私の中に占めている気持ちは
「また面倒な事が増えたな」というものなのだ。
「ああ、私にとってやはりコイツは終わってるんだな。別れて良かった!」
そう思ったら目が覚めた。
この夢は私にとって、前夫との関係が完全に終わってる事を示している。
そして前夫といても穏やかな気持ちでいれるのは、私の心が完全に癒えている事を表している。
こういう夢を見るのだから、きっとソウルメイトとの出会いは近いな、と思う。
もし、癒されないまま逃げ込むように次の結婚をすると、大抵同じ失敗を繰り返すのだ。
それにしても夢の中でも、前夫はアホだったなあ。
ヤツは「今が良ければそれで良い」という考え方だ。
そして「昨日だって何ともないんだから明日も大丈夫なんじゃないの?」的な考え方をする。
これは楽観とか希望ではない。
人生を舐めているのだ。
だからこそ、人生を舐めてんじゃねえ!!と、ばかりに様々な事を今までに起こしてきたのだ。
でもねえ・・・。人はそうそう変わらない。学べない人はいるものだ。
こういうタイプは早めに見切りをつける事をお勧めする。
ヤツももうすぐ再婚するだろう。
口では「もう結婚はいい」と言っているがね。
そして前夫の再婚相手は間違いなく苦労性だ。
きっとピッタリなカップルだろうな。
まあ、お互い頑張ろうぜ!!
コメント[0]
TB[]
2006
08,16
20:39
義母の命日
CATEGORY[前夫]
実は先週、義母の命日を迎えていた。
今日はこの事について書こうと思う。長いですよ~!
義母は、私達が離婚する前年(97年の春)、子宮ガンである事が発覚した。
ガンが発見された頃には、すでに末期の状態で、手の施しようがなかったらしい。
長男である前夫は、それが受け止められず狼狽していた。
当の本人は
「仕方ないね。今更言ったって・・・」
と静かに受け止めていた。そんな義母に義父は献身的に世話をしていた。
夏になり前夫は同窓会に出席し、看護士をやっているという女性と再会し、深い仲になった。
前夫にしてみれば、わらをも掴む思いだったのだろう。
絶望的だ、と言われた母を看護で何とか出来るのではないか・・・と。
ところが、その女性にそこをつけ込まれたのである。
「あんたの所為で離婚したのだから、責任取ってよ」
となった訳である。
人の良い前夫はそれを真に受け、でも私に慰謝料を払いたくないので「女がいる」という事は伏せて、私に別れを迫って来たのだ。
私は女がいる事に薄々気付いていたが、以前から前夫との生活に疲れ果てており、何もかも嫌気が差していた。
そんな時にまだ幼い9歳のかずまに
「僕達の為に我慢しないで。」
と言われたのをきっかけに離婚を決意したのだ。
皮肉な事に、結婚したのもかずまがきっかけだが、離婚もそうである。
離婚の前にまず別居しようと思っていたが、ちょうど子供達の冬休みと重なった。
家を出る前、ちょうど退院し自宅で療養していた義母に電話を入れた。
随分迷ったがそれでも離婚を決めた、という事を報告した。
「本当はまだあの人の事を好きなんだけど・・・もう頑張れない・・・」
と泣く私に義母は優しく
「あんたは10年間よくやったよ。あんな馬鹿息子のために尽くしてくれた」
と言ってくれた。
「ありがとう、お義母さん。ほんとはこんなお義母さん置いて出て行くのは忍びないんだけど・・・。酷い嫁でごめんね、ごめんね」
そう言って泣く私に、義母は笑いながら
「ははは。あんたが居たからって私のガンが治る訳じゃなし。
心配しなくていい。おとうさんが面倒見てくれるから私はそれだけで幸せだ。
それよりもあんたは自分の子供の心配をしなさい。あんたはまだ若いんだから、いくらでもやり直しが出来る。しっかりと育てるんだよ」
と言ってくれた。
この時の義母の慈愛に満ちた言葉はいつまで経っても忘れられない。
しかし、この電話が今生での最後の別れとなった。
その後2週間の別居の後、年が明けた1月8日に離婚した。
その頃、前夫が付き合っていた女性は義母につきっきりでついていたらしい。
しかし義母は頑として新しい女を拒んでいた。世話をさせなかったのである。
離婚して間も無く、S病院に再び入院した事を聞いた私は子供達を連れて見舞いに出かけた。
ところが。「橋村ですが・・・」と名前を告げると怖い顔をして婦長が出てきて
「そんな人うちには入院してませんよ!!帰ってください!!!」
と、物凄い剣幕で追い返されたのだ。
後で前夫が告白したが、これは女が婦長に何やら吹き込み、
「こういう女が来たら追い返してくれ」と頼んであったらしい。
私が帰った後、婦長が病室を訪れその女に意気揚々と
「今、追い返したから」と報告していたのを、義母が聞き逃さなかった。
「何だってえ?何の権利があってお前はそんな事を!私はあの子に会いたかったのに!!ひどい!」
と涙を流して怒ったらしい。その怒りはそんな女を連れてきた前夫に向けられ
「いいかね!?お前達を死ぬまで許さないからね!お前なんか死ねばいいんだ。お前なんか産むんじゃなかった。お前が代わりに癌になればいいのに!!お前が癌になれ!!!」
と、本当に死ぬまで言い続けたらしい。8月に亡くなるまでずっと!
きっと前夫には何故母がそこまで怒るのか分からないだろう。
私にも「だってさあ、素人のお前や親父が看護するよりプロにやってもらった方がいいだろう?」とシャアシャアと言ったのだ。
義母はオイソレと容易く人に心を許す人ではない。
まして、この女のせいで・・・と思っていただろうに。
義母はとうとう亡くなるまで彼女に指一本触らせなかった。勿論息子にもだ。
そして何かにつけ、息子である前夫をなじり女を罵り
「それに引き換え、ひでみは可哀相に!子供三人連れて苦労しているって言うのに!」
と私を思い、泣いていたと言うのだ。
「オレさあ、もう参っちゃったよ」という前夫には義母の気持ちなど分かるまい。
その年の8月。当時夜中に働き昼に寝ていた私。
朝10時ごろ眠りについたが、11時頃何故か突然悲しいような寂しいような気持ちに襲われ、止め処なく涙が流れてきた。
私は、自分の涙で起きてしまった。
ひょっとして義母が亡くなったのでは・・・と思っていると、間も無く前夫から電話があり、やはり義母が亡くなったとの事。
葬式の会場は何処かと聞くと
「来てもらっては困る」と言われ電話は切れてしまった。わたしは深いショックを受けた。
これについても後で前夫に聞くと、例の女がまだ籍も入れてないのに
「私が次の女房だ」と言わんばかりに葬式で采配を振るっていたらしく、この女の存在を知らない私が葬式に来たら、私を傷つけるのではないかと思った親戚が配慮させたと言うのだ。
私は親戚からも可愛がってもらっていたし、義母が誰よりも私に会いたがっていたのも、どの親戚の人も知っていた。
なので前夫は親戚中からも
「まったくお前が馬鹿なばっかりに。一番来て欲しい人が来れないで、居なくて良い奴が居るんだから。これもみんなお前の所為だ。」
と口々に罵られ、
「お前の葬式にしてやろうか」とか「お前が代わりに死ね」とか、葬式のみならず、初盆や一周忌までこうして皆から罵倒され続けたというのだ。
「オレはずーっと針のムシロだったよ。お前の所為でさあ」と私に言い、更に
「お前どうやってオレの両親や親戚に取り入ったんだ?」とぬかした。
私はただ笑って答えなかった。答えた所で分かるまい。
さて。葬式に呼んでもらえなかった当時の私は意気消沈していた。
訳が分からず、自分が情けなくて、悔し涙を流していた。
その日はとうとう一睡も出来なかった。
当時はアパートにすんでおり、玄関の横に台所があった。
夕方になり、そろそろご飯でも作ろうと台所の方に目をやると・・・。
なんと!義母が玄関に立っているではないか!!!
しかもはっきりと見えている。義母はまるで観音様のように後光が差しており、穏やかな微笑を浮かべている。
赤茶のサマーセーターとこげ茶のパンツをはき、愛用の時計をはめ、お気に入りのイヤリングとネックレスをつけて、オシャレが好きな真に義母らしい格好で現れた。
私には分かった。義母はもう安らかな気持ちで何もかも悟っているのだと。
そして葬式にも呼んで貰えなかった私をこうして慰めに来てくれたのだと。
私には充分だった。私は嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。
義母は10分ほどそこに居たと思う。
私は義母に安心してもらいたいと思い、義母が見ている中、涙を流しながらも晩御飯の仕度に取り掛かった。
義母はその様子を見ると安心したのか消えていった。
次の日も義母は微笑を湛え、やはり10分ほど居た。
義母は私を目で追い、私のする事に「うんうん」と相槌を打ち、優しく笑っていた。
こうして私は義母とのお別れをする事が出来たのだ。
私は義母の為に一週間ほど影膳を据えた。
あやかが目覚めた後、義母の気持ちを改めて聞き、どんなに慰められ救われた気持ちになったか。
生前の義母も只の人間。完璧な人ではなかったし、時には大喧嘩になる事もしばしばだった。
しかし、この人に出会えて良かった。実母には決してしない本音の会話をこの人には出来た。
血は繋がらないが、確かに私達は親子だった。
それだけの深い関わりを持てたという事に私は感謝している。
誰かに義母の事を理解して欲しくてここに書いたけれど、ここまで付き合って読んでくださった皆様に感謝です!
コメント[5]
TB[]
2006
07,11
21:38
ホームラン!
CATEGORY[前夫]
いやあ~、雨が降ったり止んだり、お天気がはっきりしませんね。
こういう時はカラッとする気分になるような事を考えるのが一番だ。
そうしたら前夫の事を思い出した!
私は当時、夫とよく大喧嘩をした。
話し合いしてもラチがあかないので、だんだん興奮して来てド派手な喧嘩になるのもしょっちゅうだった。
夫が不意にソファーに手を掛け、投げる素振りをした。
私は咄嗟に反応し、夫が投げる前に素早くソファーを投げつけてやった。
見事命中!「うおお・・・いてええ・・・」と前屈みになってたので、
私は非情にも間髪入れずに金蹴りを喰らわした。
これも見事命中!ヤツは股間を押さえ、涙を流してうずくまっていた。
そしたら、あやか(当時4歳)がすっ飛んで来て、うずくまるお父さんを見てニヤニヤしていた。
今、あやかにお父さんの思い出は?と聞くと、この時の事が物凄く焼き付いているらしい。
しかし!あやかは私の上を行く。
離婚したばかりの頃、前夫が子供達に会いに来た。
野球でもしようかとあやか(8歳)にバットを持たせ
「振ってごらん」と言われるがまま、あやかは嬉しそうに渾身の力でバットを振った。
カキーンと良い当たりをしたのは、またもや前夫のタマだった!
やったー!満塁ホームランだあ。あやか、やる~!
可哀相にヤツは股間を押さえ、声も出せずに涙を流し、ベンチの上で寝ていたそうだ。
30分は微動だにしなかったそうである。
帰ってきたあやかから
「あのねー、今日お父さんのチンコ、バットでなぐっちゃった。痛いって泣いてたよ」
と聞き、あははははははははっーとかなり笑ったのである。
ふと、思った。
うちの子達の喧嘩の多さは私譲りかも!
私は言われたら3倍にして返さないと気が済まない性質だ。
そして、やられたらやり返す。
夫婦喧嘩が絶えなかったが、私は子供の前でもガンガン喧嘩した。
子供に戦う母親の姿を見せたかったのかも。
だって当時の喧嘩の原因は、「子供と遊んでやって」とか「もっと関心持って」とか、「子供の為に貯めた貯金を使うな」とかだったからね。
パワフルにひるまず戦いを挑んでましたよ!いやあ、若かったなあ・・・。
だからこそ「あんた達を守る為、カラダ張って戦ってきたよ!」って胸を張れるのかも。
結婚生活も大変だったけど、一つも後悔してないのは、闇雲に我慢せず言いたい事を言ってきたからだろう。
いつも物凄い喧嘩してたけど、毎度勝ってたもんなあ。ふはははは!
だから子供達は夫婦喧嘩が始まると、ワクワクして見物してたらしい。
で、お父さんの負けっぷりを拝みに来るんだな。
うちの子達もタチ悪いねえ。
まだまだある前夫ネタ。
ホントにアホだから笑える事ばっかりだった。
そのうちポチポチと書くと思いますが、お暇でしたらまたお付き合いくださいませ。
コメント[0]
TB[]
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