2024 09,20 20:49 |
|
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
|
2008 07,10 22:18 |
|
最近、重い内容が続いているので、ちょっと休憩♪
今日は軽めの内容で行きま~す! 私が中一の時の担任の先生は、女性音楽教師だったが、6月に結婚し、翌年退職した。 それからすぐ妊娠したようで、次々子供が出来た事は噂で知っていた。 彼女は同じ町内に住んでいたからだ。 しかし私が二十歳の時に、先生と思わぬ再会を果たしたのだ。 当時の私は、結婚して浜松市(今は東区)に住んでいたが、久しぶりに実家に遊びにきた時に、一歳のかずまを連れ、赤ん坊だったあやかを抱いて、近所の公園へ行ったのだ。 そうしたら・・・。見覚えのある顔が! 「先生!T先生ですよね?」 「あれ?あなた・・・。橋村さんじゃないの!」 そうして私と子どもを一瞥すると 「もしかして、子供?」 「そう!」 「えええ~~~???」 彼女は仰天していた。まあ、そりゃあそうだろうなあ。ははは~。 先生も、3歳くらいの男の子を連れていた。 「お子さんですか?いくつなんですか?」 聞いたら、ビックリ!同じ一歳だった!体が大きかったのだ。 それに4人目だって・・・。それも男ばっかり! 「先生、頑張ったね」 って、笑って言うと 「あんただって!」 と言われてしまった。あははは~! 後に、私が離婚して、この舞阪町に帰って来た時、かずまと先生の4男は同級生になったのだ。 だから参観会では、いつもご一緒していた!クラスもよく一緒になっていたからね。 私が「先生」と呼んでいたので、 「もう先生はやめてよ~。同じ父兄なんだしさ。」 と、苦笑いしていた。それでも私は「先生」と呼んでいたけど。 先生のお子さんは、体が大きく、中学を卒業する頃には180を超えていた。 運動神経抜群で、勿論、勉強はよく出来た。学年で一番だもの!すごいね。 しかも10歳までアメリカにいたから、英語はペラペラだし・・・。 しっかりしていたから、生徒会長や学級委員長など「長」が付くものはみんなやっただろう。 でも驕ったところなんて無く、むしろ温厚で控え目、案外ノリもよく、かずまともよくいたずらしたり、喋ったり。 だからクラスでも人気があり、信頼を集めていたのだ。さすが~・・・って感じ。 先生も独身の時と違い、体も心も随分丸くなっていた。すいません・・・。笑 それはきっと、私もそうなんだろう。 母親になると、気持ちは丸くなるね。 子どもに振り回されたり、眠れなかったり、心配させられたり・・・こうして「親」になる事で成長させてもらった。 すでに大人だった先生ですら、変化していたもの。 参観会で先生と思い出話をすると、あの「いじめ」の原因になった大喧嘩の事を先生はよく覚えていた。 「キツイ子だと思ったよ。」 って大笑いされちゃった。ははは。 だって、あのいじめっ子を泣かしたのは、きっと後にも先にも私だけだろうから。 「今思うと、私って若かったなって思うのよ。随分思いやりがなかったよね。」 そういう先生。当時孤立していた私に対して、何もしてやらなかった、と責めていたんだろうか? 私はあえて「そう?しっかりした良い先生だったよ!」って言って、それ以上は聞かなかったけど。 でも、あの状況はきっとどんな先生でも救えなかったと思うよ。 だって、やっぱり自分が原因作ったと思うし、根本の原因は「家庭」だからね。 でもこの先生との再会は素晴らしくて、かずまの参観会は楽しみだったのだ。 先生、思い出を塗り替えてくれて、ありがとう! PR |
|
2008 07,09 23:05 |
|
さて、昨日の続き、13歳です。あんま、おもろくないかも~笑
学校で、クラスでも部活でも無視されていた私だったが。 家だけがオアシスだったか・・・というと、そうでもない。 家族内でも、私には心の拠り所が既になかったのだ。 まず、父は食卓で、よく私だけ除け者にした。 食べ辛い魚の身をほぐすと、「Mちゃん、食べるか?はい、Sちゃんにも・・・。」と、妹達にはこうして与えていたが、私はそんな事してもらえなかった。 この頃になると中学生だから、もういいんだけど、小学生の時にはもう無視されていた。 「お父さん、私には?」 と言っても、知らん顔だ。 酔って帰って来た父が、機嫌が良くて、お小遣いをくれた時があったが、 「はい、Sちゃん。あげる。」 と言って、すぐ下の妹に百円あげていた。いいなあ~と、思って 「お父さん、私にも頂戴!」 と言って、手を出したら。 「はい。」と言って、一応くれたが、それは十円。 また妹がねだったら、妹にはまた百円。なので私もまたねだったら、私にはやっぱり十円。 「なんでSばっかり!!!」 と父に抗議すると 「お前なんか、可愛くない!なんでお前にあげないといけないんだ!」 と、言われたよ。 悔しくて、母に「Sばっかりずるい!」と言ったら・・・。 多分、母は私に同情し、慰めるつもりで言ったのだろう。 「お父さん、酔ってるからねえ。しょうがないね。酔ってる時は本音が出るし・・・。あんた、よっぽど嫌われてるんだねえ。」 これを聞いて、私は「ガーン!!!」と、ショックを受けた! わ、わ、わ、私って・・・そんなに嫌われてるのぉ~~~~???!!! 結果、母の言葉は、私を深く傷つけたのだ。 だから愚鈍な人って・・・。ホント、人を傷つける。 ある意味、父は私をバッサリ斬り、母は私にトドメを刺す役目を果たしていたのである。 ・・・見事、果してくれました!ははは~。 他にも、食卓での父の「ブス」だの「バカ」だのと言う罵詈雑言は日常化し、母は見て見ぬふりをしていた。 私がテレビを見ていれば、そんな私のそばにわざわざ父は寄って来て、 「おまえ、毛深いなあ。そんなブスで嫁の貰い手なんかないのに、どうするんだ?」 と、言ってきたり。私が 「あんたに似たからでしょ?私の所為じゃないよ!フン!」 と、反撃すると「ブスのくせに生意気だ」とか何とか、因縁つけてくるのだ。 まあ、気にせずテレビを見ていたが。 妹だって油断ならない。 一番下の妹は、私に喧嘩を吹っ掛けては母に言いつけて、その都度、母は私の言い訳も聞かずに、一方的に叱責する。こういう挑発は日常的だった。 両親に溺愛されていた一番下の妹Mは、狡猾な笑みを浮かべて、私に勝利宣言! それからは私はMに対して、どんな挑発を受けようと、一切の無視をした。 祖母はやたら口うるさいし、人の顔を見れば「宿題やったかね?」とグチグチ言う。 もうノイローゼになりそうだった。 働いていた祖母とは夜しか顔を合わさなかったのに、それでも一日30回は言われていたよ! 唯一、私の見方だったすぐ下の妹だが。 しかし翌年、この妹の所為で、私は学校で先輩に呼び出しを喰らい、いじめられ、後輩にまで悪口を言いふらされる羽目に。 どこにも私の居場所はなかった。ホント「八方塞がり」だった。 こんなに嫌われると、自分でも笑っちゃうよ。 よく学校に行き続けたと思う。これが後の自信にも繋がったけどね。 で、翌年はさらに過酷になって行くのだ。 まだ続くよ~!みんな!ついてこ~い!笑 |
|
2008 07,08 21:44 |
|
今日は、昨日の続き・・・の前に、普通の日記を少々。
昨夜すぐるは3人友達を連れて来て、3人とも泊まって行った。 あやかもいて、この狭い部屋にみんなで雑魚寝。 朝までみんなで大騒ぎして盛り上がり、私もかなり楽しかった。 そのノリのまま、今日の昼、みんなでカラオケ行ってまた大盛り上がり! 若い子に遊んでもらってよかった! 「おばちゃんとまた遊んでネ!」 「は~い!」 なんて素直で可愛い子達。すぐるの友達を選ぶ目は、なかなかしっかりしている。 それだけは自慢出来るかも。 あーーー今日は楽しかった!!! さて、昨日の続き。こんな重い内容、おもろいんかな? まあ、いいや。自分のブログだしぃ。なんちて。 クラス内で無視が始まった頃。 私は美術部に所属していたが、部活も本格的に活動を始めた頃だった。 私のほかに一年生は二十人くらいいたが、4歳から絵の教室に行ってたり、自分なりに毎日お絵かきをしていた私だったので、きっと一年生の中でもうまい方だったと思う。 それで当時の顧問の美術の先生からものすごく褒めてもらえ、かなりひいきされた。 私でさえ自覚するくらい。ホント、ヤバイからあんま「ひいきしないで・・・」と思うくらいに。 で、案の定、みんなから 「あんたはいいよねえ」 とか 「さすが。先生にひいきされてるだけの事はあるよね。」 とか・・・嫌み三昧。 クラスでも無視され始めて、私を包む空気が悪くなってる事に便乗して、結局部活内でも無視されて、この後の3年間この状態が続いたのだ。 一時、空気が緩和した時もあったが、まあ、あまり変わらなかったかな。 自分も媚びたくなかったしね。 当時の私を霊視するあやかには 「先生!もう、私に構わないで!」 と、聞こえてきたようだ。 以前も「ひいき」について書いた事があるが、やはり「ひいき」は人を傷つける。 先生は好意でしてくれるんだろうが、やはり迷惑だった。 それ以上にショックだったのは、「先生に褒めてもらった」事を同級生達に喜んでもらえない私は、 「結局その程度の人間関係しか築けていないんだ!」 と、気付いてしまった事だ。自分の人望のなさに本当に打ちのめされてしまった。 今、冷静に振り返ってみれば、そうかもしれない。 私は優等生だったので、人が「トロく」見えていた。 だから自分が好意で「教えてやった」つもりでも、それが人を傷つけていただろう。 そもそも「教えてやった」事自体、偉そうで、人を馬鹿にした行為なのだから。 そこに13歳で気付けた私はラッキーだったね。 そのまま行ったら、どんな傲慢な大人になっていた事か・・・。 しかし、自分の「敗北感」は否めなかったのは、確かだ。 でもこれはまだまだ序の口。本当の孤独と辛抱、葛藤はこれからだったのだから。 と言う訳で、続きはまた明日! あんまりおもしろくないと思うので、気が引けますが・・・。見たかったら見てね! |
|
2008 07,07 21:52 |
|
さあて・・・今日は久しぶりに自分の過去の事を書こうかなあ。
前回の続き、13歳だね。私の暗黒時代、中学生の頃の事だ。 う~・・・ん。書きたいような書きたくないような・・・。 書きたい事は山のようにあるのに、楽しい事は一つもないからなあ。 よく死ななかったなあと思うくらい。 はっきり言って、人生の中で最低最悪、「八方塞がり」とは、この時の私の為にある言葉なのか?と思うよ。 まあ、そんな重い前置きはさておいて・・・。 中学に入ると担任は、28歳の女性、音楽教師だった。 彼女は独身、気が強く、なんでもズバズバ言う人だった。 ま、そのくらいじゃないと、おバカ全盛期の中学坊主の相手は務まらないね。 私は担任との間にトラブルはなかったが、この一学期に、この後のいじめの原因になる「大ゲンカ」を、男子と繰り広げる事になったのだ。 私の斜め前の席に座るTは、小金持ちの息子で我儘、根性悪で卑怯者、親の財布から金を抜き取ったとか、そんな事を武勇伝にして語っていた器の小さい男だ。 私は昔からこの男が大嫌い。ていうか、この手の人間が、男も女もここら辺は多い。 甘やかされ内弁慶で、その癖一人じゃ何にも出来ない連中。こういうのがいつも固まっているのだ。 そのツルんでる連中の中でも、Tはボス格だった。 発端は、Tが横に座ってるEちゃんをからかっていた。 Eちゃんは私の前に座っており、小学校の時も割と仲良くしてくれて、中学では部活も一緒。 私の目の前では、しつこくEちゃんがからかわれているのだ。 Tの場合、それはEちゃんに限らず、私にもその矛先を向ける時もあったが、それは単にTが意地悪いだけなのだ。 それも毎日、1日何回も、嫌がるような事を面白がって言うのだ。 私はイライラしながら、いつも聞いていた。 でもあえて事を荒立てたりしなかった。そんな事をしたら、かえって反発を招き、事態を悪化させる事は目に見えていたからだ。 私も当時は今と違い、非常におとなしく、目立たない人だったからね。 でもさすがの私でも「プチッ」と、キレた時があったのだ。 ある日、とうとうEちゃんが泣き出したのだ! そうしたら「こいつ、泣いた!」と指さして笑うT。それから同じ班で手下のKとO(こいつらも男)は、Tに媚びるようにニヤニヤ笑ってる!!! もう我慢ならん! 私は立ち上がり「お前、いい加減にしろよ!Eちゃんに謝れ!!!」と叫んだ。 そしたら「なんだテメェ」とまだ馬鹿にして笑うから 「この卑怯者!」 と言って、Tの胸倉を掴んで座ってる椅子から投げ飛ばしたのだ。 勿論Tは椅子から転げ落ち、したたかに尻を打ったようだ。 そうしたら、なんとあのTが泣いたよ!!!よえええ・・・この男・・・。 私は馬乗りになって、「おまえ、どんな躾されたんだ!お前の親は何してるんだ!」みたいな事を言ったと思う。 まあ、そんな事言っても無駄なんだけどね。だってそいつの親も似たようなもんだからだ。 で、それから私はTの反撃にあい、結局私も泣かされたんだけど。 それから間もなく担任が割って入って来て、喧嘩を治めたのである。 担任には「あのTを泣かすとはねえ。あんたも気が強いよねえ。大人しいと思ってたら・・・。」と、呆れられたんだけどね。 だって、友達が泣いてても知らん顔してるって・・・私にはそんな事出来ません。 私はそんな卑怯者にはなりたくないもの。 で、それが発端で、あっという間に「あいつ無視しよう」的な命令が伝わったのか、その日から私は孤立することになったのだ。 そして驚く事に、庇ったはずのEちゃんは、なんと部活でも積極的に私を無視するようになり、教室でも部活でも私は一人ぼっちになってしまった。 部活はいろんな理由が重なってしまったんだけね。 中には慕ってくれた子もいたんだけど、私がうざくて遠ざけてしまったし。 そんな暗黒時代の3年間はこうして幕を開けたのです。 続きは明日。こんな面白くない内容、読んでくれる人、いるのか疑問だけどね。笑 暇だったら読んでねえ! |
|
2008 06,06 23:58 |
|
すいません。また昨日の続きです。書きたいんですよ~笑
折角、フィリピンパブの事なんで・・・。 この店には、フィリピン人の女の子のほかに、韓国人のミナちゃん、私、日本人の女の子がもう一人、いた。 私の仕事は、ほかの子同様、お客様のテーブルにもつくが、大抵日本語の上手くないフィリピン人の子のフォローだったり、トラブルの処理だったり・・・。 ここで一人、印象的なお客さんがいた。 ある日、ほかのテーブルで一人のお客さんが怒鳴っていた。 何事だろう・・・と思っていると、案の定店長から声が掛かる。 「あそこのテーブルについてくれないかな?」 「は~い」 テーブルに行くと、何やらフィリピン人のベスに怒鳴ってる。 怒鳴ってる人は、40代後半の男性、通称クニちゃん。 怒りが収まらない様子のクニちゃんと、困惑顔のベスの間に割って入る。 「どうしたの?ベスが何か失礼な事をしたの?」 「私、何もしていないよ!!!」 「オレはこの女の顔を見たくないから、どっかやってくれ!」 私は、ベスに他のテーブルに行くように促す。 「何が気に入らなかったの?教えて。」 クニちゃんの怒りが鎮まった頃に聞くと、クニちゃんはポツリポツリと喋り出す。 「ベスが何かしたの?」 「そうじゃない。ベスの顔が気に入らないんだ。」 「何で?」 「前の女房とそっくりだからだ。」 ・・・・・!それって、八つ当たりじゃん?! クニちゃんの話に因ると・・・彼は以前からフィリピンパブが大好きで、ほかの店に通っていたらしい。 そこで働いていたフィリピン女性に一目ぼれした彼は、彼女を口説き落とし、結婚したようだ。 娘を一人儲け、彼は本当に可愛がっていたらしい。 ところが、その愛娘が6歳の時に転機が来た。 娘が突然の事故に遭い、輸血が必要になったのだ。 その時の血液検査で分かったのは、娘の血液型が、自分と女房の間で生まれるはずもない血液型だった、という事・・・。 どうやら彼女は、結婚するまで他のお客さんとも関係を持っていた事が、判明したのだ。 その事実に激高した彼は、その時の怒りの感情にまかせ、彼女を娘と共に追い出したのだ。 「クニちゃん!馬鹿ねえ!何でそんな事したの?「血」なんてどうでもいいじゃない!娘さんが可愛かったんでしょう?」 思わず、そう言ってしまったが、クニちゃんは怒るどころか、ガックリと肩を落としてうな垂れる。 「うん・・・。可愛かったんだ。俺は娘が可愛くて可愛くて・・・。」 そう言ったところで、泣き出してしまった。 ああ、泣かしちゃったよ・・・と思いつつ、頭を撫でて慰める。 「そっか、クニちゃん、良いパパだったんだね。だから今、追い出した事、後悔してるんだ。」 うん、うん、と、うなずく彼。私の膝の上で泣いてる頭を撫で続ける。 「俺は女房を追い出した時、それまで娘の為に貯めていた、娘名義の通帳をあげたんだ。300万入ったやつ。」 「そっか~。すごいねえ、クニちゃんは!そんなに愛情があるんなら、前の奥さんとヨリを戻したら?」 そう言うと、彼はしばらく黙って・・・言い出した。 「それが・・・もう、だめなんだ。あいつは娘の父親が違うと分かった途端、その男の元に行って、結婚してしまった!」 ・・・・絶句! すげえ~・・・。変わり身、早過ぎ!何てドライなんだ! 「俺は裏切られた気持ちだよ!なんだよ!俺じゃなくてもいいじゃないか!!!」 「クニちゃんが怒る気持ちはわかるけど・・・。でも、それをベスに八つ当たりしちゃいけないでしょう?ベスにしたら、いい迷惑だよ!彼女は一生懸命仕事してるのに!」 クニちゃんは、うな垂れて聞いている。 「クニちゃん!これからもこの店に来たいんでしょう?じゃあ、ちゃんとベスに謝って!分かった?」 彼がうなずいたので、私は早速ベスを呼んで、謝らせた。 クニちゃんは、ちゃんと頭を下げてくれた。 「クニちゃん。ベスの顔を見て。どう?まだ奥さんの顔に似てる?」 「・・・・・・・。そう言われると、今はそんなに似てない気がする。」 「じゃあ、もうベスが横に座っても、大丈夫ね?」 そう言って、ベスと交代した。 彼が喋って感情を吐き出したので、彼の中に整理がついたのだろう。 だから「先ほどより、似てない気がする」のだ。人間て、面白いね。 こうして私は、今やってるセラピストの練習を重ねていたんだな。 まさか、数年後に役に立つとは思わなかったけど。 しかし、彼は一時の感情に流された事で、大事な家族を失ったのだ。 後悔は大きかっただろう。私は彼と前夫を重ねながら、聞いていたのだ。 「あいつも、こんな風に後悔する時がくるんだろうか?」 って、思いながらね。だって、その時の前夫は再婚したばかりで、浮かれていたからね。 クニちゃんは経営者でやり手の社長だった。 店にとっても、とても良い常連さんだったから、彼を失わなかった事で、店長に感謝されたのは言うまでもない。 その後、クニちゃんから熱烈にプロポーズされたが、あいにく彼は私の好みではなかったから、きっぱりと断った。 私は経営者は好きだが、もっと落ち着いている人が好きなのだ。 彼はどちらかというと直情型で、感情の起伏が激しい人だから、うまくいかないのは目に見えていたのだ。 「後悔」について、多くの事を教えてくれた人だった。 今、どうしているかなあ・・・? |
|
忍者ブログ [PR] |