2024 09,20 22:29 |
|
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
|
2008 06,05 22:28 |
|
今日も昨日の続きを書きたいので、「くどい!」と思われるでしょうが・・・。
でも書きたいんだよねえ~。 フィリピンパブに勤めていた頃のお話ですよ。 兎にも角にも、たった3ヶ月のパートでしたが、ホント濃かったんだ・・・。 今日は、同じパブに勤める韓国人のミナちゃんの事について、書きます。 フィリピンパブなのに、何で韓国人がいるの?・・・と、思うでしょうが、一人いました。 ミナちゃんは、私より一つ年上のお姉さんだった。 だから30~31歳くらいだったかな? 彼女は昔、若かりし頃に東京赤坂のクラブでホステスをしていたらしく、その事がかなりの自慢だったようだ。 それが高いプライドの源であり、忘れられないようだった。 彼女はホステス時代にマナーを徹底的に教え込まれたのか、行儀の悪いフィリピンの子達の足を、テーブルの下で蹴っては、たしなめていた。 彼女からしてみれば「教えてやってる」と思っているのだろう。 しかし、やり過ぎから結果、フィリピン人の女の子達から総スカンを喰らい、店内では浮いていたのだ。 私が店に入ったばかりの頃、最初は私に対して、非常に高圧的な態度をとってきたものだった。 私はフィリピンの子達とそれなりに上手くやっていたし、店内でもミナちゃんとそんなに接点がないので、気にも留めてなかったけどね。 でもある日、同じテーブルに着いた時があったのだ。 その時、私の接客態度を見て、彼女は何か感じたのだろう。 「ひでみちゃん、お話が面白いね。前は何をしていたの?」 と聞いてくる。 なので元来オープンな私は、セールスをしてた事、それから転職を繰り返してる事、ファミレスと掛け持ちで働いてる事、離婚した事・・・と、聞かれもしない事までベラベラベラベラ喋ったのだ。 お客さん、そっちのけで・・・。笑 ミナちゃんの態度が変わったのは、それからだ。 私に興味を持ったのだろう。 「ねえ、明日の昼間一緒に御飯食べよう。奢るから。」 そう言われ、寝る時間を削って、ランチに行ったのだ。 そうしたら友達のいない彼女は喋る喋る喋る・・・。 今まで溜まったものを一気に噴き出すように。よっぽど溜め込んでいたのかな。 そのうち彼女が本音を言いだす。 「わたし、子供二人いるの。二人とも韓国に置いて来たの。私の母が育ててるけど・・・。たまに韓国に帰ると、みじめな気持ちになる。私は子供のために日本で一生懸命働いてるのに、それが子供には分からない。だから帰っても、そっぽ向かれて・・・。私は何のために働いてるの?」 そう言って泣き出す。 私は胸が締め付けられる思いで聞いていた。 「ミナちゃんは頑張ってるよ。いいお母さんだよ。今、子供達は分からなくても、大人になればきっと分かってくれる。大丈夫だよ。」 私は突っ伏して泣いてるミナちゃんの頭を撫でてやるしかなかった。 「ひでみちゃんは分かってくれる。ありがとう。」 そう言って、ミナちゃんは何度もありがとうと言ってくれた。 彼女のプライドの高さが、弱音を吐きだす場所を無くさせたんだろう。 だって、本音を言ったのが、「ひでみちゃんが初めてよ。」と、言っていたくらいだから。 それにはびっくりしたよ。だって私はどこにいても、本音ぶっちゃけトークだからね。そのほうが楽なのに・・・。 でもそれからミナちゃんは少し変わったかな。柔らかくなったというか・・・。 それから家にも一度遊びに来たが。 うちの子達は3人共まだ小さく(かずま小4くらい、あやか小3、すぐるが小1・・・だったような)、なのでみんな 「おかあさん」「おかあさん」 と、毎日が「おかあさん」の大安売りだったのである。 それを見ていた彼女は 「いいなあ、かわいいなあ。」 と非常に羨ましがり 「ひでみちゃんの事、凄い慕ってる。うちの子とは大違い。いいなあ。」 と、ニコニコ笑って見ていた。きっと彼女の胸中は複雑だったろうに。 でも決して、妬みの表情は見せなかったのだ。本当に心底、羨ましい・・・という顔をしていた。 逆に、私のほうがそんな彼女を見て、切なくなってしまった。 どうしてミナちゃんは苦労が報われていないんだろう・・・。そう思ってしまった。 当時の私は、仕事を掛け持ち、家に帰れば3人の子供が家を散らかし、家事と育児で気の休まる暇がなかった。 「自分を休める」時間もお金も場所も持ち合わせていなかった。 だから自分が決めた人生とはいえ、内心クタクタだったのだ。 でもそれは、とんだ甘ったれなのだと、思い知らされた。 「少なくとも、私は報われているじゃないか!こうして私は子供達から必要とされている! 叱っても叱っても、ついて来るじゃないか!」 そう、思ったのだ。それがどんなに救いだっただろう。 私が店を辞めたのと同時に、ミナちゃんも店を辞め、その後東京に行ったようだ。 最後に彼女は電話をかけてきた。 「私の友達はひでみちゃんだけ。今までありがとう。忘れないよ。」 あれから一度も会ってないが、どうしてるだろう。 私も貴女の事、忘れてないよ。どうか彼女が幸せでいますように。 PR |
|
2008 06,04 21:11 |
|
昨日、ブラジルの事を少し書いたので、今日はフィリピンの事を書こう。
まだこの仕事を始める前、離婚したばかりの頃(30前くらいかなあ・・・?)、私は3カ月だけだが、フィリピンパブの日本人スタッフとして、パートで働いた事がある。 自給の良さに魅かれて、行ったのだ。 そこで働くフィリピン人の彼女たちは非常に明るく、快活だった。 彼女たちの半分は「騙されて連れてこられた!」と思い、やむなく働いている・・・という子もいたが、残りの半分は「日本に来ればお金になる」事を知っているので、かなり頑張る。 こういう人は2回目以降の来日者だ。 大抵、何度も就労ビザで入ってくる彼女達は、それぞれの家庭に事情を抱えていた。 弟を大学にやりたい、子供を養うため、親が病気・・・。様々だ。 みな若く見えたが、 「あら、ひでみさんと同い年よ!でもお客さんには25って言ってあるの!」 と言って、カレンはケラケラ笑う。 カレンは国に子供を2人置いてきていた。 「母親に面倒を見てもらってるの。子供の為に稼いで、養うのよ。」 私は彼女が独身だとばかり思っていたから、非常に驚いた。 カレンは私のことを聞いてきたので、離婚した事、3人の子どもがいる事、だから「私も稼がないとね。」と打ち明けた。 カレンも「ひでみさん、独身かと思った!」なんて、流暢な日本語で言ってくれた。 でもそれで私達は、お互い分かり合い、共感しあえたのだと思う。 そう話しているそばで、カレンの携帯が鳴る。 私はこの時、昼間彼女たちの住まいに遊びに来ており、お昼ごはんをごちそうになっていた所だ。 カレンは携帯を見るなり、顔をしかめる。どうやら嫌なお客らしい。 カレンは携帯を指差し、私に「この人嫌い。変な日本人!」と言った。 私が笑って見ていたら、カレンが携帯に出る。 「ラビューラビュー、すずきさん!会いたかった!電話うれしい!」 だって・・・。すごいよ。女優だな。 カレンは数分話して携帯を切った。 「私、この人に腕時計買わせたよ。」 「えーーー?!いくらの?」 「50万!」 「ひゃーーー!!!」 ひっくり返るかと思ったよ。 でもカレンはその腕時計を付けていない。 「カレン、時計は今どうしてるの?」 「ないよ。換金して、もうフィリピンに送金しちゃった!」 あっけらかんと笑って言うカレン。また私は二度びっくり! 「どうして?時計を付けていけばいいじゃない。」 そう言うと、カレンは教えてくれた。 「ひでみさん、フィリピンは日本とは違うよ。そんな物付けていったら、手首を切り落とされちゃうよ。時計やネックレスをしたら、それだけで狙われてしまう。犯罪者が多いのよ。でも、そういう連中はいちいち物の確認なんてしないから、手首を刎ねて、その手首を拾い上げてから、本物かどうか、確認するの。殺すことなんてなんとも思ってないんだから。だからネックレスなんてしてたら、首が飛ぶよ!」 「・・・・。」 「ひでみさん、もし貴女がそういう国に行く時は、何も付けないほうがいいよ。おしゃれもダメ。お金がないように見えるように、Tシャツとジーンズで行く事。分かった?」 私はコクコクと頷いた。 彼女達はそういう環境の中を生き抜いてきたのだ。 だからこそ、言葉は重く、私に響いた。 「ひでみさんも大変だね。でも幸せだよ。子供と暮らせて・・・羨ましい。フィリピンには仕事がないの。一緒に暮したくても暮せない。日本は何でもあって、幸せだよ。」 そうか・・・。そう思った。 当時の私はいくつも仕事を掛け持ち、寝る間も惜しんで仕事をしていたが。 そうか、私は幸せだったんだ・・・そう気付かせてくれたのだ。 豊かな日本で、周りばかり見ていたらきっと気付かなかったね。 彼女達にも、いつもこうして教えられたものだ。 あれから私は店長とのいざこざが原因で、店を辞めたが、この時も彼女達は泣いて別れを惜しんでくれた。 今頃、どうしているだろう。 本当に懐かしい、良い思い出なのだ。 |
|
2008 05,20 22:17 |
|
今日は昨日の続きです。
小学校の卒業式の日。いよいよ先生ともお別れだ。 式の後は、教室で謝恩会を開き、お別れをするのが当時の風習だった。 で、式の始めに先生の言葉があった。 それは、当時の私にとって衝撃的な告白だった。 「私は、何年か前に11歳の一人息子を白血病で亡くしました。 今まで低学年を受け持ってきましたが、久しぶりに貴方達高学年を受け持ったのです。正直、複雑でした。 亡くした息子と同い年でしたから・・・。 今、この2年間を振り返ると、自分でも少し貴方達に厳しすぎたような気がします。 もしかしたら、少し憎たらしかったのかもしれません。 私の息子は死んだのに・・・貴方達は生きてるって・・・。」 先生は涙を流していた。 「厳しくしすぎた事、ごめんなさい。叱りすぎたかもしれません。 中学に行っても、頑張ってください。」 私は聞いていて、ショックを受けた。 先生の悲しみを知らなかった事を。 先生! 私もみんなも黙って聞いていたが、本当は声を大にして言いたかった。 「先生の厳しさは正しかったよ。決して八つ当たりじゃなかったよ。」って。 きっと先生からしたら、胸中は複雑だったに違いない。 だって私達は、健康のありがたさも、走り回る自由さも、みんなと勉強できる楽しさも「当たり前」だ。 そして病気の辛さも、副作用の辛さも知らない。なんてぞんざいな子供達! そして健康な子供達を持った母親を、どう見ていたのだろうね。 先生、本当はもっといいたい事があったんじゃないの? 後年、私が大人になり、家に遊びに来てくださった事があったが、その時もしみじみ仰っていた。 「私ねえ、今思うと何であんなに厳しかったのか、良く分からん。いいじゃないの、健康ならねえ。私も若かったのかしら。」 そう言って笑っておられたが。でも私は反論した。 「何言ってんの!先生。私は感謝してますよ。叱られたのが良い思い出です。先生に叱られなかったら、私は今頃どんな大人になっていたか・・・。」 私は笑ってそう言った。 「そう?そう言ってくれれば、私も救われるけど。」 先生も笑って仰った。 中学の時も、友人と先生のお宅に遊びに行った事があるが。 居間には、先生とよく似た顔の少年の写真があった。 利発そうな、しっかりとした顔立ちの男の子。 今思えば、その少年から少し寂しさと、そして「良い子」に疲れた、というのが感じられる。 この子はそれで早々に、人生をリタイヤしたのかな。 そして先生もまた、悲しみと無条件の愛を学ばれたのだろう。 先生自体、生まれた時から苦労があり、複雑な家庭状況の中で育った人だ。 先生の今世は、苦労の解消もあったのだろう。 この苦労ゆえ、先生の人柄は温かいのだ。 私は、子供ながらも、この先生の温かさを感じ取っていたんだろうね。 どんな人にも、それぞれの苦労があり、たくさんの面がある。 でも苦労してる人には、それだけの温かさが備わってるね。 やはり多少の苦労は、人間には必要なんだな、と思う。 私は一番多感な時に、良い先生と巡り合えて、本当に良かったと思う。 |
|
2008 05,19 23:21 |
|
今日は、私の過去話の続き、11歳の時の事を書きましょう。
11歳・・・っていうと、小5だ。 小5、小6と同じ先生が担任だった。T先生だ。 T先生は当時40代後半の厳しい女の先生だった。 でも皆に平等に厳しく、時には私もパチンと叩かれる事も。 宿題も多く、忘れると本当に厳しく叱られたものだ。 当時の私は大人しく真面目で、今の私とは大違い!自分で言うか・・・って思うけど(笑) 本ばかり読んでいて、居るのか居ないのか、きっと分からなかったんじゃないかな。 2,3人の親しい友達しか話す人は居ないし、とにかく話し下手、プライド高い、でも小心者・・・ そんな子だったよ。 よくうつむいて歩いていたから、T先生に 「何か、落ちてるの?」 と、からかわれたっけ。懐かしい思い出だ。 私はこの厳しい先生が好きだった。 誰も、ひいきしなかったからだ。 前回、小4の時の担任のえこひいきが凄かった・・・と書いたが。 きっとその反動もあるんだろうね。 それに厳しく叱られても、いや、叱られたこそ 「この人は自分の為に言ってくれた。」 と感じれるのだ。 「叱れない」自分の母親と違って、毅然とした厳しさの中に、人間の温かさを先生の中に感じ取っていた。 だから私は今でも、この先生と年賀状のやり取りをしている。 数年前には、友達の結婚式でもご一緒だったし。 私が結婚した時も、離婚した後も、家に遊びに来てくださった。 先生は今もう、70歳を越えたかな・・・? 穏やかな老後を過ごしておいでだ。 この先生との一番の思い出は、やっぱり叱られた事だ。 机の上に座っていたら、太股をピシャンと叩かれ、「行儀が悪い!」と怒られ、「ああ、そうなんだ」と思った。 そんな事で?・・・と思われるかもしれないが、親に叱られた事もなく、関心も寄せられていなかった私には、新鮮な事だったのだ。本ばかり読んでいて、頭でっかちだったが、肝心な躾はされていない子だったのだ。 この先生に教わらなければ、きっと私はもっと恥を掻いていただろう。 それから「感想文を書いてきなさい」という宿題が出された。 でも私は期限には出さなかった。面倒で・・・。 それで先生に呼び出され 「あんた!いつ出すの?」 と言うので、咄嗟に「今日・・・。」と言ってしまった。そうしたら 「本当だね?!あんたが『今日』って言うんなら、私はずっと待ってるからね!」 と言われたのだ。 でも本気にしなかった私は、家に帰ったきり感想文も書かず、翌日後ろめたい気持ちのまま、登校したのだ。 当たり前だが、約束を破った私に、先生は怒っていた!それはそれは凄い形相で・・・。 「あんた~!!!よくも約束、破ったねええ~~~!!!私はあんたを待って、夜の七時まで待ってたのに~~~!!!」 叩かれる事はなかったが、とにかく先生の迫力にビビり、それから 「しまった!先生を怒らせるほど、私は不味い事をしてしまったんだ。」 と、深い悔恨の念にかられたのだ。 先生も結構意地になってたんだねえ。ふふふ~。 でもそのお陰で、私は口約束とはいえ、一回約束をしたら、必ず守るよう心掛ける様になったのだ。 とにかく「嘘つくな」「出来ない約束をするな」と、教えられたのである。 うちの親だったら、こうまで厳しくないから、きっと分からなかったよ。 本当に、うちの親はだらしないんだよねえ。 それで、お詫びの意味も込めて、感想文を自分なりにちゃんと書いたら、 クラスの代表として文集に載ったのである。いやあ~やれば出来るモンですなあ~。 この先生の事でまだ書きたい事があるので、明日も続きを書きます。 気が向いたら、読んでくださいねえ。 |
|
2008 04,28 22:36 |
|
今日は岐阜県。
お陰様でゴールデンウィークは忙しい。 先日の高熱は、嵐の前の静けさ・・・といったところか。 忙しくなる前の休憩だねえ。 それにしても、途中通った名古屋市内は、相変わらずどこもかしこも渋滞だ。 走り易い浜松市内に比べると、効率が悪く感じる。 渋滞にはまっている間も、車からは排気ガスを垂れ流している訳で。 何だか環境破壊に貢献しちゃってるねえ。 ガソリンもまた上がるみたいだし。 これ以上上がったら、ちょっと交通手段も考えなきゃいけないかな。 その方が地球にも優しいよね。 そうは言っても、車の運転が大好きな私。 高速道路を走るのも大好きだし。 第一、今住んでる所で、車のない生活なんて考えられないしなあ。 地下鉄もなきゃ、バスの路線も限られてるよ。 便利に慣れてるのを、不自由な生活に戻すと言うのは大変だ。 私だって、こんなにも車に甘えているのだ。 今更、車のない生活なんて、戻れないよ。 あやかも免許を取りたいような、取らなくてもいいような、って感じなんだけど。 実際、名古屋に住んじゃうと、地下鉄やJRで十分だから、不自由を感じないんだよね。 それにいきなり、あんな所を初心者に運転させるのは・・・いくら私でもちょっと怖いな。 浜松くらいの田舎だと、初心者の練習にはいいんだけどね。 みんな、運転も優しいし。安心だ。 だからあやかもいずれは取るつもりだけど、もうちょっと後で・・・と、考えてるようだ。 私が運転免許を取ったのは、割と遅い。 22歳の時だ。すぐるがお腹にいた時だ。 その頃、化粧品のセールスをしていた。 この頃は免許がなかったので、自転車で頑張っていたのだ。 所長(女性)がうちの子を託児所まで、毎日送り迎えをしてくれていたのだ。 私が免許を取るまでの一年間、してくれていた。 でも「そろそろ、取りなさい。」と言われ、「そうだよなあ・・・私もそろそろ疲れたよ。」と思い、免許を取る事にしたのだ。実際二人の子供を連れて、免許を取るのは、物凄く大変だった。 子供って、母親が新しい事(仕事とか習い事ね)を始めると、まるで試すかのように、熱が出たりするんだ。 で、うちの子も途端に色んな事をやってくれた。 風邪をひいたり、トビヒをやってくれたり・・・。 おまけに旦那が意地悪をして、私が免許を取るのを邪魔したり・・・。 それでも根性で負けなかったけどさ! それに教習所に行ってても、「何か集中力がないなあ」と思っていたら、妊娠してたのだ。 でも、3人も子供がいて、車がないのは大変だと思うから、生まれる前に免許が取れてよかったよ。 ちなみに、旦那が邪魔をするのは、本当に無意識なんだけど、私が自立していくのが面白くなかったからだ。 その癖、何一つ助けてくれなかったけどね。 熱の出た子供を医者にも連れて行ってくれなかったのだ。 だからどうしても免許が欲しかったのだ。 そりゃあ、根性も出るわな。ははは~。 どんだけ鍛えてくれてたんだ、ヤツは。 そして無事に免許が取れて、すぐに出掛けたのが清水市だった。 いきなり高速道路に乗って、遊びに行っちゃった~。 元気な妊婦だったな。 すぐるもお金を貯めて、バイクの免許取りたいって言ってるし。 取る時間なんて、あるのかよって、感じだけど。 独身のうちにしか出来ない事が山とある! 後悔しないようにやって欲しいね。 |
|
忍者ブログ [PR] |