2024 09,22 02:14 |
|
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
|
2006 09,02 22:05 |
|
さっき、親友のH子ちゃんから小包が届いた。
中身は私の名刺だ。前々から頼んであったモノだ。 前回も彼女が作ったのだが、今回はまたガラッと感じが変わっている。 空がプリントされているが、ちょうどこのホームページの壁紙と被って良い感じだ。 H子ちゃん、どうもありがとう!! 彼女との付き合いも、もう10年くらいになる。 最初の出会いは私がP化粧品のセールスをやっていた時だ。 彼女は最初、つっけんどんに断ってきた。 でも私は知っていた。こういう強い断り方をする人ほど、欲しがっている、という事を。 現に私の勘は当たっていた。彼女は化粧品に興味を持っていたのである。 ところが、彼女は買えない事情を抱えていた。 当時、彼女は旦那さんとの離婚を考えていた。 2、3回彼女の元を訪れていた私に、彼女は打ち明けてくれたのだ。 「確かに化粧品は欲しいんだけどね。でも今は買えない」 そう言っていた。でも私は何の気なしに 「そう言うけどね。そう言ってる人ほど別れないんだよね! もし、本当に別れたとしても、今度は独身になるんだから、尚更自分を磨かないと!」 と言ったのだ。その言葉にH子ちゃんはカチーンと来たようだ。 そんなら別れてやろうじゃん!勝気な彼女はそう思ったらしい。 皮肉にも私が彼女をけしかけてしまい、結果背中を押してしまったのだ。 後で彼女が告白した。 「あん時、マジでカチンと来たんだよね。でもさ、回りのみんなが変に気を使って、遠まわしに腫れ物に触るみたいに扱うのがイヤでさ。 でも事情の知らないあんたは、ストレートにホントの事を言ってくれて。あんたと喋ってて久しぶりに腹から笑えてさあ。すっごい救われたんだよね。ありがとうね。」 そう言ってくれた。実際私の一言で、人生の重大な決意をしちゃったんだよね。 そん時は聞いてて、マジでビビッたのを覚えている。 「ええ~??私かよ~?」みたいな。 因みに、当時彼女は4万ほど、化粧品を購入してくれた。 大変な時期にも関わらず・・・。 その後、物凄い速さで離婚を決め、翌月にはもう離婚して引越ししてたような。 「離婚したからには、働かないと!だからあんたの所で使ってよ」 と、彼女は私の部下になったのである。 理由は 「だって、あんたと一緒だと楽しそうじゃん!」 だそうだ。 恐ろしい事に彼女は、「面白そう」という理由だけで、私を信頼して付いて来てくれる。 その後、美顔器や下着のネットワークビジネスといった物に、私は飛びついてやっていたが、彼女もすぐに乗ってくれ、それも電話だけで現物も見ずに購入しようとする。 「ちょ、ちょっとあんた!モノぐらい見て確認しなさいよお。」 「いいよ。だってあんたがやるんでしょ?面白そうじゃん!あんたが良いと思ったらそれを信じるよ。で、いくら?」 「いくらったって・・・私のお勧めは25万だけど、いろいろあるから、納得したら決めてちょうだい」 「はいよ。じゃあ明日ハンコ持っていくよ」 それで本当に決めてしまう。彼女だって母子家庭である。 お金が余っている訳ではない。彼女が寝ずに働いたお金なのだ。 同じ母子家庭の私が一番良く知っている。 だからこそ、どれほど彼女が私に信頼を寄せてくれているか、良く分かる。 私は彼女の半年後に離婚した。 それを機に私は化粧品のセールスを辞め、H子ちゃんとも仕事をそれぞれ別れる事になった。 それからお互い忙しく連絡を取れるのも年に2,3回だけになった。 しかしお互いを支えあうのには充分だったと思う。 私は、精神的にも肉体的にもしんどい時が何度かあったが、それでも 「彼女が弱音を吐かないうちは、私が吐く訳にはいかない」 と、彼女の存在が私を奮い立たせてくれたのだ。 本当の友達、親友ってそういうものじゃないかなあ、と思う。 彼女が無条件に私を信じてくれるので、結局私は頑張ってしまう。 信頼を裏切れないからだ。 そして何とか彼女が元を取れるように・・・と動いてしまうのである。 彼女こそ人を動かす天才なのかもしれない。 私がセラピストとして今あるのも彼女のお陰だ。 「あんたがやればいいじゃん!お客なら私が連れて来てやるよ!」 そう言って5日後に、彼女は自分が働いていた所の社長を引っ張って来てくれたのだ。 そうしてお客様からお客様へと広がってくれ、今に至るのである。 今でも、神戸に居る彼女はこうして私の力になってくれている。 だから距離の長さは感じない。 そんなもの、問題ではないのだ。 H子ちゃん、これからも良い友達でいてね!よろしく!! PR |
|
2006 08,31 22:56 |
|
私はコーヒーが大好きだ。
といっても凝った事はしないので、インスタントか紙パックのアイスコーヒーしか飲まないが。 今は季節がら、アイスコーヒーに牛乳を入れて、カフェ・オレにするのが好きなんだ~。 一日何杯飲むんだろうね。 昨日ファミレスの事を書いたが、コーヒーの事で、思い出した事がある。 私は平日は朝6時まで働いていたが、土曜日の夜・・・というか日曜日の朝は8時まで働いていた。 夜中と違って、モーニングはガラッと客層が変わる。 その店は浜松駅のすぐ傍だからか、外人さんも多く、日本語が通じない人も珍しくなかった。 ある白人男性にオーダーを聞こうと、英語が堪能なMちゃんが私の代わりに行ってくれた。 暫くするとMちゃんが首を傾げながら戻ってきた。 「どうしたの?」と聞くと 「多分、アイスコーヒーって言ったと思うんだけど」と言う。 どうやらその外人さん、Mちゃんに英語が通じないと思ったのか、その頃(やはり7年位前)まだ珍しい電子辞書を取り出し、指で指し示した。 辞書には 「薄ら寒いコーヒー」 と書いてあったらしい。私達は大爆笑だった! 「何よ!薄ら寒いコーヒーって!」と暫く語り草になったのは言うまでも無い。 そう、英語ではアイスコーヒーは「COLDCOFFEE」なのだ。 きっとそれを直訳しちゃったんだね。 Mちゃんは、どうせ日本語なんて分からないだろうと思い 「おまたせしました!薄ら寒いコーヒーです」 と言って出したようだ。外人さんはニコニコしながら 「THANKYOU」 と言って、美味しそうに飲んでいた。 それを見て私達は 「美味しそうに薄ら寒いコーヒーを飲んでるよ!」 と、大笑いしていたのだ。今思うとなんちゅうウェートレスじゃ! 毎日、いろんなお客さんがやって来て、本当に楽しかったなあ。 それからいろんな所で働いたが、どこも楽しかったな。 未だに切れずに友達でいる人もいるのだから、本当に縁というのは面白いと思う。 昔から、仕事は明るく楽しくがモットーだ。 今はしたい事を仕事にしているから、毎日とても楽しくさせてもらっているが、やりたくない事を仕事にしている時でも、 「どうせやるなら楽しくやろう!」と決めていた。 で、ホントに楽しくなるんだよね。 これからの毎日も、もっと楽しく濃い時間にしていきたい、と思う。 |
|
2006 08,30 21:13 |
|
今日はすぐると二人で、ファミレスで晩御飯を食べようとコ○スに入った。
禁煙席に通され、座るとウェイターがお冷とメニューを持って来た。 そして、さりげなくすぐるの前にお子様メニューとぬりえと色鉛筆のセットまで置かれた。 きっと退屈しのぎの子供用のサービスなのだろう。 思わず私は大笑いをしてしまい 「結構ですよ。中学生ですから」 と伝えた。ウェイターは「すいません」と恐縮しながらそれを引っ込めた。 今日一日買い物ですぐると一緒に出掛けていたが、子供扱いをされたのは今日だけでも三回目である。 実はちょっと傷ついていたりして。 でも、しょうがないよなあ・・・。チンチクリンなのは私でもどうしようもない。 唐突だが、私は四年前まで夜中のファミレスで働いていた。 四年間、夜の10時から朝6時まで働いていたが、物凄く印象に残っている客がいた。 ちょうど7年前の今頃、8月のお盆過ぎに午前2時ごろになって一組の親子がやって来た。 化粧気がなく疲れた顔をした40前後の母親がランドセルを背負った男の子と女の子を連れて来たのだ。 女の子の方がお姉さんだったと思う。 二人ともランドセルに目一杯、学用品を詰め込んでいたようだ。 手にはそれぞれ横断バッグを持ち、これも何やら荷物が一杯詰められていた。 当時、平日の夜中だった事もあって、ホールに居たのは私と店長のみ。 私が「いらっしゃいませ」と案内しようと、やって来た三人を見たら、薄汚く一目で「こりゃ、家出だ!」と確信した。 とりあえず禁煙席に通し、通常のメニューとお子様用メニューを2枚、持って言った。 本当は大人には子供メニューを受け付けてはいけないのだが、その母親は 「お金ないから、子供用を食べさせてくれ」としつこく言うので、仕方なく 「じゃあ、内緒ですよ」と注文を受けたのだ。 そうしたら、私より2つ若い店長に 「お前さあ、何で断らなかったんだよ!」と言われたので 「じゃあ、あんたが断ってきな!」と言ったら、店長がその三人を見て 「オレ、やっぱり言えねえ~」と言い出したので 「ホラ見ろ。言えんクセに人に言うな!」と言い返したのである。 今でも覚えているが、受けた注文は「お子様ドリア」1つ「お子様コーンスープ」「お子様パンケーキ」2つずつだったような。 料理を出したらよっぽどお腹が空いていたのか、特に母親はガツガツ喰らいつく様に食べていた。 何日も風呂に入ってないのか、皆垢で薄汚れ、ツーンとすえた匂いがした。 母親も小柄でガリガリに痩せていたが、子供は二人とも三歳から幼稚園児位にしか見えないほど小さかった。 当時すぐるは小1だったが、それでもその子達の方が明らかに小さかった。 これで本当に小学生なの?と思った位だ。 食べている時、私はお冷のおかわりを持っていった。 そうしたら母親が 「あの・・・・中田島砂丘に行きたいんだけど・・・歩いて行けますか?」 と聞くではないか!!こんな夜中に何しに海辺に行くのだ? 勿論、私は道を知ってたが、内心「やばいよ。この人達・・・」と思ったので、知らないフリをして 「少々お待ちくださいませ。ただ今店長に道を聞いて参りますので」 と言ってその場を去り 「店長~!!やばいよ~自殺でもされたらイカンから警察呼んで~!!」 と、店長に警察に電話を入れさせたのである。 幸いすぐ傍に派出所があった。 5分ほどで来るのを知っていたので、道案内をするフリをして警察が来るまでその親子の足止めをしていたのである。 間も無くおまわりさんがやって来たので、三人を保護してもらった。 しっかりと勘定だけはしていってもらったが、その時母親が持っていた財布が忘れられない。 財布代わりに取り出したのは小さな巾着袋だったが、広げた袋から細かくたたんだ千円札がビッシリと詰まっているのが見えたのだ。 チラッとだけだが、同じ大きさに揃えてたたんである様子は、尋常ではない母親の精神が窺える。 よほど、追い詰められているのではないか・・・そう感じたのを覚えている。 あれからその親子がどうしたかは知らない。 でもあの子達が大きくなっていれば中学生位になっているのではないか。 今でも時々思い出す。 とにかくインパクトの強い親子だった。 あの三人を見て、私も同じ母子家庭だけど、人からむやみに同情や心配をされるようなみすぼらしい格好だけはすまい、と思ったものだ。 |
|
2006 07,29 21:27 |
|
このクソ暑い日に草取りをした。
お客様も4時に帰り、今日は草取りをするチャンスだと思ったからだ。 しかし一人でやるなんて絶対イヤだ。 こんな面倒な事、子供に手伝わせるしかない! 猫の額ほどの広さしかない庭だが、すっかり一面の草ボウボウである。 草の丈は一メートルを超えているものばかり。 「おーい、すぐる。ちょっと手伝いなさいよ」 と呼ぶ。すぐるは軍手をはめて出て来た。 土は柔らかいので面白いくらい草は抜ける。 草取りをしながら、すぐるはボランティア部に懸ける情熱を語った。 「オレは今度部長に立候補してみようと思って。」ちなみに2年の部員は2名。 「絶対部長になって、ボランティア部をそれとなーく、さりげなーく美術部に移行させてみせる!」 ただでさえ暑いのに、横で暑苦しい宣言をしているすぐる。しかも無謀だ。 意気込みは買うが、いかんせん無駄な努力と言うものである。 「アホか!お前は!その情熱を他に傾けろよ。勉強とか勉強とか勉強とかさー」 「なんだよ、勉強だけじゃん」 すぐるの気持ちも分かるけどね。 本当は美術部に入りたかったのに、かずまの学年で廃部になったのだ。 かずまは最後のたった一人の部員であり、部長でもあった。 最後の年なんて画なんてほとんど描いておらず、本ばかり読んでいたみたいだ。 そういう私もその美術部の部長をやっていたが。 その頃は一学年20人以上部員がいたものだ。 ついでに言うが、私はここでも嫌われており、部長なのに誰も言う事を聞いてくれない 悲しい部長だったのだ。 これだけ嫌われていると、今思い出しても笑えてくる。 「すんげー嫌われてたんだー。はははー」みたいな。 でも私は画を描くのが好きだったし、教えてくれる先輩もいたし、悔しいのも手伝ってかなり上手い方だった。 しかし仲間の居ないかずまは上達しない。 やはりライバルの存在や仲間を持たないとなかなか刺激をもらえないので、上達もしないのだ。 自分の息子が最後を飾って、嬉しいような寂しいような。 それにしてもかずまの画はド下手糞だった! すぐるとアホな会話をしつつ、草取りに励んでいると、お向かいのおばあちゃんが 「まあ、すぐる君偉いわねえ」と言ってくれる。 私から言わせれば、家族なのだから家の手伝いくらい当たり前である。 将来いずれ大人になれば、やらなくてはいけない事ばかりだからだ。 偉くも何ともない、自分の為だ。 勿論、あと3,4年もすれば世の中に放り出す予定。 「ご苦労様」 草取りが終わり、家に入ったすぐるは3ヶ月も先の祭りについて熱く語りだした。 早速笛を取り出し、吹いている。 あの情熱はどうやら笛に向かったようだ。 いつも勉強以外のものなら情熱を注いでいるすぐる、頑張れよ・・・! |
|
2006 07,07 23:32 |
|
今日の午後、母に頼まれてお見舞いへ一緒に行く事になった。
親戚のおじいさん(父のいとこらしい、両親の仲人親にもあたる)が半年位前から老人ホームに入所しているというので、一回位は顔を見に行っとかないとね、という事になったのだ。 この施設は割りと最近出来たばかりの建物なので、中はとてもキレイだ。 受付に行き「○○○(おじいさんの名前)はこちらに入所してますか?」と聞くと 「何号室の方かわかりますか?」と言われた。知らないから聞いてるのに。 それでもって中々何処に居るのか教えてくれない。 セキュリティーの問題からだと思うが、普通の病院のように聞けば教えてくれるもんだと思っていたので、かなりイライラするやりとりをする事になった。 「だから、お宅は○○○さんをお見舞いに来たんですよね?」 「そうです!」 「ご家族ですか?」 「いいえ、親戚です」 「何階にいらっしゃるか聞いてないんですか?」 「聞いてないです」 「でもここに入所してるのは聞いて来たんでしょう?」 「はい、聞いてきましたよ。でも来れば分かると思ったんで、部屋までは聞いてませんでした」 私はかなりキレ気味だった。 怒ってはいかん・・・彼女だって仕事でやってるんだから。最近不審者だって多いしね。 きっと入居者の安全を考えて最善を尽くしてるんだよね。 でもねえ・・・・わたしがそんなに怪しいのか?すいませんねえ、人相悪くて! もう、ひがんでしまいそうだ。何故私が来たくもない見舞いに来てこんな所で嫌がらせを受けなきゃならんのだ! らちがあかんので、母と「どうする?」と顔を見合わせていると、やっと「4階です」と教えてくれた。 最初っから教えろってんだ!・・・いかんいかんセラピストたるもの落ち着かねば。 さて4階に着くと、またもや厳重なオートロックである。 慣れないオートロックを解除し、また受付をした。 ここではすんなり通してもらえ、ホッとした。 ここまで来るのに何故かクタクタになっている私。 なのに肝心のおじいさんはボケてて母が分からない。 言っておくが、私はこのおじいさんとは初対面である。 母は耳が遠く聞こえにくいし、おじいさんは「あんた誰?」と聞くし 何を言っても「分からんなあ」なので、母は早速話題に詰まった。 で、私が助け舟を出し「ここ、どう?楽しくやってる?」とか「昨日何食べたの?」とかそんな話をして、そこそこ切り上げて帰って来た。 母は始めて施設内に入ったらしく、少なからずショックを受けていた。 「まるで牢獄だあ。あたしゃ、あんなトコ入りたくない」と言う。 そりゃそうだ。私だって嫌だ。 私の所に来て下さる方の中に、看護士さんや介護士さんが結構いらっしゃる。 そして看護や介護が天職の方であればあるほど、今の施設の在り方に疑問を持っている。 そして残念な事にそういう人ほど、辛くて離職してしまう。 そういう私も以前、ヘルパーの資格を取ろうと講習に通い、現場での研修も受けた。 施設に行ってビックリ!とにかく入所者の扱いが酷い事。 たった2日間しか居なかったのに、私が見ただけで何回老人が車椅子から転げ落ちていたか! そしてみんなトイレも水分補給さえ我慢していた。 水分を取ると利尿剤が効いて夜中にトイレに行きたくなる。 すると職員をナースコールで呼ばなくてはいけない。 で「またトイレ?」と怒られるので、それが嫌でみんな喉が渇いても、脱水症状を起こすギリギリまで我慢すると言うのだ。 私は仰天した!入所者にとってそこは生活の場であるはずだ。 何故何もかも我慢しなければいけないのか?私達は普段の生活でそんな我慢をしている? 一人のおばあさんが「喉が渇いた」と訴えると「3時まで我慢しな!」と怒鳴られていた。 私は3日ある実習に、2日目で行けなくなった。 現場が酷すぎて涙が止まらなくなったからだ。 そして「もう行けません」と講習を主催していた所に電話を入れ、その施設での酷い現状を訴えた。 3時間ほど電話していたと思う。もちろん引き止められたし 「あなたのような方こそ現場には必要です。一緒に変えて行きましょう」 と促された。しかしだ。私が一人そんな現場で奮闘したからって何になるだろう。 つぶされるか、妥協していくか、どちらかだ。 勿論、全ての施設はこうではない。中には素晴らしい所もあるのだから。 で、私は改めて「大事なのは人間としての尊厳であり、心だ」と悟った。 私がケアすべきなのは体じゃない、心なんだ!とね。 まあ、それがきっかけで私がセラピストを目指す事にもなったんだよね。 一見遠回りしたけど、やっぱり私があの施設(後から聞いたら静岡県西部で一番評判が悪い所だった!)に行ったのも、偶然ではないだろう。 今ならあの場所での役割が分かる。 いつか私がお金持ちになったらこういう施設もやってみたいと思う。 いつになるか分からないけど・・・・。人生の最後くらい楽しかったって思って欲しいよね。 早く貯金しようっと! |
|
忍者ブログ [PR] |