2024 09,21 12:10 |
|
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
|
2007 07,03 20:07 |
|
最近のすぐるは、頑張っている。
あれから毎日、家事に取り組んでいるのだ。 金に目がくらんでいるとは言え、よくやっている。 今日は皿洗い、部屋の掃除、洗濯をしてくれた。計250円だ。 昨日は「やる!やる!」と言いつつ、寝てしまったのだ。 だから昨日は30円分しか働かなかったので、その分も巻き返そうと今日は必死なのだ。 それでもサボる事無く、何かしら毎日続けているので、正直驚いている。 これが続いてくれると良いけどね~。 あやかが電話を掛けてきた。 「どうしたの?」 「別に・・・。ただ今日、ふと思ったんだけど・・・。 バイトをしてるとすごく楽しい時があって、自分でも『エネルギーの回り方が違うなあ』って思ったんだ。 そしたら無性に『お母さんのソウルメイトが近い!』って感じてさあ。 ついでに自分のソウルメイトも早く来そうだよ! この分なら、お母さんの夢が叶って、自分の子供と孫を一緒に抱けるかもよ!」 それを言いたくて、夜中に電話が来たのだ。 思わず「ははは!」って笑っちゃったけどね! 私はまた子供を産んで育てたい、という気持ちもあるが、欲張りなので孫も一緒に欲しいとも思っていたのだ。 両方一緒に授乳してみたいよね。面白そう! 私がセールスを始めたばかりの頃(当時21歳くらい)、34歳になる先輩が 「今日、驚いちゃったよ!」 と言うので、訳を聞いたら・・・ 先輩は、午前中、一般家庭の新規開拓の為、歩いていたと言うのだ。 あるお宅で、玄関のチャイムを鳴らしたら、一人の主婦が赤ちゃんを抱いて出てきたのだ。 先輩は「可愛いお子さんですね・・・」と褒めたら・・・ 「この子は孫なのよ。」と言う。でもその主婦はまだ若かったので、驚いた先輩は 「え?失礼ですけど・・・貴女いくつ?」 と聞いたら・・・「34よ。」と言うではないか! 「もう!びっくりしちゃったわよ~!だって私と同い年だもん。うちの子だってまだ3歳だってのに~。」 私は笑って聞いていたのだ。 何でも、その主婦も自身が17で娘を産み、その娘もまた17で出産したと言うのだ。 「そうか。早く子供を産めば、そういう事もあるよね。」 と思ったものだ。 その時の赤ちゃんももう高校生だね。時の流れは速い。 すぐるもまだ、生まれてなかったもの。 それから2,3年経って、私も開拓をしていた時の事。 「ピンポーン!」って鳴らしたら、2,3歳の小さな子がドアを開けた。 そしたら同い年くらいの子達が4人も出てきた。 あとから40くらいの主婦が、困ったような顔をして出てきた。 子供がドアを開けたんで、「しまった!」と思ったんだろうね。 「たくさん子供さんがいるんですね。他所のお子さんも預かっているんですか?」 と聞いたら。主婦が説明を始めた。 「こっちとこっちの子は、私の子。で、この子とこの子は孫なのよ。」 「えええ~???」と、驚く私。 「私、3年前に再婚したんだけど、ちょうど娘も同じくらいに結婚して、出産も重なっちゃって、もう大変だったのよ~。なのにまた出来ちゃって・・・。子供と孫が同級生で、どっちも年子だからもう大変~!!!」 と、言っていた。そりゃあ、そうだろうね。 うちも年子だったから大変だったもの。 でも、「そういうのも、アリか!」と思ったものだ。 ちなみにその主婦は、42歳だったのだ。とても綺麗な方で魅力的だった。 その方は結局お客様にはならなかったので、それっきりだったが、とても印象に残る人だったのだ。 こういう方達との出会いも、今思えば、自分の枠を広げる為だったのだ。 こういう生き方もある、とか、こういう可能性もある、とか・・・自分の思い込みを捨て、枠を広げると、現実もやってくるからだ。 でも本当に世の中は広い!いろんな方がいるものだ。 それにしても、時間が経つのはあっという間だなあ・・・って思う。 ボヤボヤしてらんない。 ソウルメイトがいつ来ても良いように、お肌のお手入れでもしておくか! PR |
|
2007 06,13 20:33 |
|
さて。今日はこの前の続き、5歳の頃の事でも書くとするか。
前回、祖父の酒乱に耐え切れず、両親は私達幼い姉妹を連れて、父の実家に一週間ほど世話になった・・・という事を書いた。 この頃は今ほどアパートがあった訳じゃないし、祖父にも反省して欲しい、という意図もあったのだろう。 私の実家と父の実家は一キロくらいしか離れていない。 祖母は毎日のように父の実家を訪れて、 「帰ってきて」 と両親を説得していたようだった。 母は「帰ってもまた繰返されるようなら困るから、念書を書いてきて」と頼んだようだった。 あの両親の割には、考えた、というか、何と言うか・・・(笑) それで祖父と祖母は「もう二度とお酒を飲んで暴れません」みたいなのを書いて、揃って父の実家に行き、約束をしたのだそうだ。 こうして私達は家に戻ることになった。 この時の喜びと安堵感、それから「またあの怖い思いをするのかも」という複雑な気持ちを思い出す。 戻ってからも、結局お酒をやめられなかった祖父は、また「飲んでは暴れる」という事を繰返した。 「アル中」はお酒に依存する「病気」だ。 「やめます」と言って止められるほど、簡単な事ではない。 一種の中毒症状だが、根は深く、心の病気なのだ。 「寂しさ」「孤独」「無理」いろいろな葛藤から逃げる為の手段として、「お酒」や「煙草」「シンナー」「薬」を使うのだ。 幸い、祖父の酒乱はすぐになりを潜める時が来た。 祖父に肺がんが見つかり、寝込んでしまったからだ。 祖父は入院を拒み、家での自宅療養だったが、一年半の闘病の後、静かに逝ったのである。 それでも、今でも鮮明に覚えている。 真っ暗な部屋でテレビをつけ、大きな音量を出していた。 祖父はテレビを見ているのか見ていないのか、一升瓶片手で酒を飲み、涙を流しながら何やらブツブツ言っていた。 子供心にも祖父が決して幸せなのではない、と感じたものだ。 祖父のアル中の原因はたくさんある。 人間はそんなに単純で明快ではないからだ。 私の所にも「薬」や「シンナー」を「やっていた」、或いは「やっている」という人達が結構来る。 やはりたくさんの葛藤を抱えているのだ。 「弱さ」や「甘え」もあるだろう。 でも「生き方を知らない」とか「本当の自分の人生ではない」という葛藤が一番深いように思う。 祖父は「緑内障」にかかり、「もう失明するんだ!」という絶望が、自暴自棄にさせたのだ。 今なら進行を止められる病気だが、当時は不治の病だったのだ。 祖父の弱さが現実と向き合えず、お酒に逃げてしまったのである。 お酒や薬だけではなく、パチンコや賭け事に熱中して、現実の煩わしさから逃げている人もたくさんいる。 まさに前夫がそうだったしね。 そう思うと逃げている人は本当に多い。 向き合っている人はほんの一握りなのかも。 お酒じゃないけど、すぐるはジュースが大好き。 「ああ~飲みてえ~!」 そういうとたまらず走ってジュースを買いに行く。 そのうち病気になるんじゃないかと心配だ。 こういう習慣から、中毒にもなっていくんだよね。 こういう時は、プチ催眠が有効だ。 好きな物というのは、大抵目の前に描く習性があるのだ。 それをそれほど好きではない物の位置に置き換えると、「飲みたい」「食べたい」衝動が抑えられる。 この前もすぐるにやったら「うん、もうそんなに飲みたくない」と言った。 ちょっと安心する。 でも一番なのは、自分で健康の心配を自覚する事だよね。 そういう私も「ダイエット、ダイエット」と言う割には我慢が出来ないんだけどね。 でも「チョコ」の位置を書き換えてからは、そんなにチョコを食べなくなった。 こういう衝動も催眠で和らげるのですよ。 「食べ過ぎちゃう~!」とお悩みの方、よかったら言ってくださいね。 |
|
2007 05,23 23:40 |
|
今日は何を書こうかなあ・・・。
この前の続き、5歳の頃でも書こうかな。 5歳の頃、私は明るく楽しい、といった思い出は一切無い。 妹と庭先で、ままごとをよくしていたのを思い出すが、これが唯一の慰められる記憶か。 その頃の我が家では、まだまだ祖父の酒乱は続いていた。 幼稚園から帰り、家に上がろうとして靴を脱ごうとしたら 「脱いではいけない!」 と言う母親の声が。よく見ると、玄関の上がり口には、割れたガラスが一面に散乱していた。 母はまだ幼稚園に行ってないすぐ下の妹を抱いて、離れにある物置小屋から私に声を掛けたのだ。 「靴を履いてこっちに来なさい。」 と言う。まだ家の奥からおじいさんが暴れている物音がした。 しばらく収まるまで、母達とそこで隠れていたものだ。 こういう事がしょっちゅうあった。 それ以来、家に上がる時、靴を脱ぐ前に「そこは安全か、どうか」確かめる癖がついた。 ある日、その頃珍しかった「ボンカレー」が、食卓に上った。 私はこれを食べるのが物凄く楽しみだったのだ。 その頃はまだ、丸いちゃぶ台で御飯を食べていたが、私がいざ食べようとした時、祖父が酔った勢いでやって来て、ちゃぶ台を足でひっくり返したのだ。 もう、ほとんど「巨人の星」状態・・・。 私達はビックリして、火が点いた様に大泣きをしたのだ。 その時漠然と思ったものだ。 「私がこうして楽しみにしている物を食べるのは、とんでもない贅沢なんだ。」 こうして私は、あらゆる物を「止める」事ばかり、引き寄せた。 それで「私にはどうせ無理」とか「私は手に入らない」という事を、刷り込んでいった。 これによって、私は「あきらめる」事を身に付けた。 だからこそ、それを払拭したくて私はあらゆる努力を重ねたと思う。 そして、このような「不可抗力」もあるのだと知り、それに備える為にも「忍耐」したと思う。 このような出来事が無ければ、私にはもっと「忍耐」が足らなかっただろうね。 ちなみにこの時ひっくり返されたちゃぶ台は真っ二つになり、それから「ダイニングテーブル」に代わったのだ。 長年使っていたちゃぶ台はこうして世代交代したのだ。 このテーブルは今もなお、実家で現役なのである! もう30年以上、使ってるよ。物持ち良過ぎ!てゆうか単なるケチ!すげえな、おやじ・・・。 しかしこの出来事は勿論、カルマの清算という意味もあった。 私は過去世で繰り返し、山賊や海賊をし、人の物を奪ってきた。 その立場を味あわさせられただけである。 たかだかボンカレーぐらいで済んでよかったのだ。あはは~。 そして更に事態は進展する。 母は祖母に「他所にうちの事を言うんじゃない。」と口止めされており、それを真に受けていたが、いささか我慢が出来なくなったのだろう。 とうとう父に打ち明け、「家を出よう」という事になった。 私達姉妹を連れ、家を出た先は同じ町内にある父の実家だった。父は婿養子なのだ。 実家と言うのは、先日のブログでも書いた、あの性格の悪いおばはんの所だ。 ほんの一週間程の事だと思うが、居心地の悪さや遠慮をしていた事、肩身の狭さなど、今でもはっきりと覚えている。 何よりいつもと違うコースの幼稚園バスでの送り迎えが、子供心にも恥ずかしかったからだ。 みんなから「あんたバス間違えてるよ」と言われていた。 でも私は何も言えず、それにこのバスに乗らなければならない理由なんか、みんなに言いたくなかった。 でも天真爛漫に育った子のなんと残酷な事か! 無慈悲にも「なんであんたこのバス乗ってんの?」と聞いてくる。しつこく・・・。 ホント「放っておいてくれ」と言いたかった。 今じゃ、ぺらぺらと何でも喋れる私。 何と、ありがたい事か!営業をやっておいて本当によかった! 言いたい事を堂々と、誤解されずに、キチンと伝える。それは素晴らしい事だ。 話術に天分なんてない。それは「訓練」の賜物なのだ。 私は逃げずに避けずに通って来てよかった。 子供の頃は親から放っとかれ、友達もなく、一言も喋らないで過ごす事など珍しくなかった。 でも心の底ではいろんな自分の思いが、どろどろと渦巻いていた。 でも表現する術を知らなかったのだ。 だから私は言いたい。「子供と会話して!」って。 子供は大人が教えなければ、分からないからだ。 私が小さな頃に経験した苦しみを、どなたにも味あわせたくない。 何度も言うが、子供を守れるのは親しかいないのである。 |
|
2007 04,26 23:57 |
|
いやあ~・・・昨日は参った参った!
ブログを書いて投稿しようとしたら、サーバーの不調で、書いた物が全部吹っ飛んだ! おまけになかなか復旧せず、結局回復したのは朝になってからだった。 まあ、いいけどさ・・・。しょうがないもんね。そういう時もあるさ。 昨日はすぐるが修学旅行に行ってて居ないから、独身生活を満喫していた・・・という内容を書いたのさ。 ずーっとマンガを読んでたんだけどね。 今日は自分の中学の頃の修学旅行の思い出を書こうかなあ。 その前のグループ作りは割りとスムーズにいった覚えがある。 要は嫌われ者同士、寄せ集めのグループって感じだったけどね。 でも予想外の人が入ってきて、ビックリ!したのだ。 Mという子だ。この子は小柄でわがままで気が強かった。 普段は別のグループで群れていたが、どうやらそのわがまま振りに仲間から愛想を尽かされたのか、一人あぶれたのだ。 そうしたら、先生が私達のグループに「入れてもらえ」と言うが、当の本人は「ええ~?」と怪訝そう。 どうやら「こんな嫌われ者たちと一緒にされたくない」という思いなのだろう。 でも私だって、Mなんか、嫌だったのだ。 だって、本当に凄いわがままだったんだもん。 でも結局グループに入る事になった。 しかし。当日はMは私達に同行する事無く、他のグループと行動を共にしていたので、私達は内心「ラッキー!」と思ったものだった。 でも旅館に着いたらそうはいかない。 同室で寝なければいけないからね。 さあ、寝よう・・・という時。 私達は布団の枕元に、それぞれの着替えや下着をきちんとたたみ、置いておいた。 ついでに私はその上に眼鏡(当時はかけていた、今はコンタクトです!)を置いたのだ。 そうしたら!事もあろうにそのMという女! たたんで置いてある服の山を次々と踏んで歩いて渡ってるではないか! 私は「何やってんの!あんた!」と制止しているそばから、「パリン!」と何かが壊れる音が・・・。 私の眼鏡が割れたのだ!!! 「ちょっと!どうしてくれるんだよ!」と言っても 「そんなとこ、置いとく人が悪い」だの「知らん」だの、とうとう謝ってはくれなかった。 それどころか薄笑いを浮かべてる! 「弁償してもらうからね!」と言ったって、知らん顔をしているのだ。何て奴だろう! 大体「そんなトコ置く人が悪い」って言ったって、人の服の上を歩く方が間違ってる。 散らかってるならまだしも、皆きちんとたたんであったのに。 結局先生に抗議しても、うやむやにされ、弁償はしてもらえなかった。 でも弁償なんて、どうでもいい。「ごめんなさい」という言葉が欲しかったのだ。 次の日、私は裸眼で出歩く事になり、何を見てもぼんやりとしか、見えなかったのだ。 どこに行っても「見えない~見えない~」って感じ。 まあ、今となってはそれも良い思い出だけどね。 当時の私の視力は、確か0、1くらい。 ちなみに今はもっと悪い。ミクロの世界で生きてます~。 そのMという女、最近時々、祭りなどで見掛ける時がある。 顔を見ると変わっておらず、気が強くわがままそうなのが窺える。 多分、変わっていない、成長していない、というのは分かる。 彼女はいつも男の子を二人、連れて歩いている。きっと子供なんだろうね。 「あの子でも結婚したんだ」と思ったもの。 Mの子供を見る目つきには愛情は感じられない。 面倒臭い、とか、うるさい、っていう感じ。私の母親によく似た目つきだ。 Mには確かお姉さんが居た。お姉さんの方は大人しく控えめ、という感じだ。 同じくお母さんもそうだ。大人しくきちんと叱れない大人なんだろう。 あんまり憶測で物を言ってはいけないが、でもMがああいう人になったのは、「突然」ではないだろう。 Mの周りで誰かきちんと叱れる大人が居たら、もっと違っていたかもしれない。 或いは自分で気付くだけの賢さがあったら、良かったのかもしれない。 まあ、人の事だからどうでも良いんだけど。 彼女はきっと、私の眼鏡を壊した事など忘れているだろう。 でも被害者側は一生忘れない物だ。 人間は「された事」というのは、忘れないよね。 そう思うと自分の普段の言動や行動も、気を付けなくちゃ、と思うのだ。 明日はすぐるが帰って来る。 楽しかったかな~? |
|
2007 04,20 21:41 |
|
かずまからメールがあった。
「最近、料理のレパートリーが増えたよ!」 だってさ。頑張ってるんだねえ・・・って感じ。 「何の仕事をしてるの?」 と聞くと、光回線の電話営業だそうだ。 行く前は「やりたくない・・・」と言ってたが、いざ行ってみると 「みんないい人ばっかり!」でよかったね。ただ今研修中らしい。 きっと電話の応対がうまくなるね。 私は化粧品のセールスを8年間やっていた。 主に一般家庭を回る「訪問販売」てやつだ。 これが本当に良い勉強になった。 家によって本当に違う。 考え方、家族のあり方、子育ての仕方、家の臭い、散らかり方、片付け方、玄関での対応の仕方・・・。 でも私につくお客さんはホント!みんな面白い人ばっかりだった。 よく「類は友を呼ぶ」と言うが、本当だ。 先輩セールス、同僚、後輩、人それぞれだが、やはりそれぞれにつくお客さんには「カラー」というのがある。 O先輩には「主婦」、K先輩には「お金持ちの奥様」、Sさんという同僚には「インテリ」・・・という具合に。 お客様は、その人自身を表しているのだ。 気が合わないとお客様にもならないもの。 私のお客さんの事は、当時の事務員さんから 「あんたのお客さん、って感じだね」 と、よく言われた。ちょっと馬鹿にした感じだったけどね。 まあ、それも分かるような気もするが。 私のお客さんは元ヤンキーとか水商売の人とか、バツ一とか日系ブラジル人とか・・・とにかくバラエティーに富んでいた。 それから私と同じく早婚でヤンママが多かった。 私も21,2歳だったが向こうも同年代なのだ。 だから話をしてても面白かった。 「私、昔横浜でボーソー(暴走族)やってて、子供抱えてハコノリしてたよ!」 もう大爆笑だった。ハコノリとは車の窓を前回に開け、そこに身を乗り出して座る事だ。 それから一見普通の主婦に見えても、物凄く個性的だったり訳ありだったりね。 元暴走族というだけでも、NさんKさんYさんEさん・・・とすぐ思い出す。 みな結婚しており、子供がいた。 もう10年以上会ってないが、どうしてるだろう。 あの子達も大きくなってるだろうね。 昔やんちゃをして悪かった人は、落ち着くのも早い。 どん底も味わっているので、懐が深く情に篤い人が多かった。 だから人間として信用できる人が多かった。 何より「キレイ事」を言わず、本音で語るので、それが私には気に入ったのだ。 すぐ相手を褒めたりおだてたりする人は、自分の事も言って欲しくて言ってる人が多いのだ。 そんな上っ面の会話なぞ、私は興味はない。 浜松と言う土地柄か、日系ブラジル人のお客さんも多かった。 でも普通のセールスは相手にしない。ローンが通らないからだ。 私は高額で取引はせず、現金でそれも人によっては身振り手振り片言の日本語で商売した。 ブラジルの人たちは、 「どうやって化粧品を使えば良いか分からなかったから助かったわ。」 と言ってくれ、私も嬉しかったのだ。 そして彼女達は強力なネットワークを持っているので、紹介もたくさんあり、一人一人は決して高額ではなかったけれど、私の売り上げに貢献してくれたのだ。 当時の事務員さんは非常に堅物で、学歴や職歴で人を判断するような人だった。 だから私のお客さんを馬鹿にしても不思議ではなかった。 この人には分かるまい。私のお客様の素晴らしさを!率直に語り合う素晴らしさを! 私はたくさんの人達に囲まれて、育てていただいた。 辛い事も傷つく事もたくさんあったが、この時代、辛抱しなかったら今の私は無かっただろう。 私は今まで出会った全ての人に感謝している。 |
|
忍者ブログ [PR] |