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2006 08,10 23:38 |
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昨日に引き続き、今日は母の買い物に付き合う約束だ。
あちこちで、夏物処分のセールをやっているので行きたいと言うのだ。 実家へ母を迎えに行くと早速広告を広げながら、車に乗り込んだ。 そのチラシはミシンの広告だった。 で「ミシンを買いたいからこの店に行って」と言う。 さらに「あやかと半分ずつお金を出し合って買う」と言っている。 言っておくが、それはあやかに断りを入れている訳ではなく 何の交渉もないまま、母の中で勝手に決めているだけの事である。 内心、私は「ええ~!?この人勝手に決めちゃってるよ。しょうがないなあ・・・ あんまり高額だったら私が援助するしかないなあ・・・」と思っていたのだ。 なのに無慈悲にも横で 「安物買うとすぐ壊れるから高いのを買う」とか言ってるし・・・。 勘弁してくれ・・・。私だって母子家庭だっていうの。 お金が余っているわけではない。 ましてあやかだってそんなに稼いでいる訳ではない。 せいぜい3、4万もらえばいいとこだ。 さらに横で 「5,6万はするかねえ~?」と聞いてくる。 あんた、高校生(行ってないけど)の孫に2、3万出させる気かよ!鬼だな。 しかし、私は無言。余分な事を言って横でイジケられるのは御免だ。 さて、小さなミシン屋さんに着いた。 値段を見てビックリ! ¥5800~¥10800のミシンしかない。ていうか広告通りの値段。 拍子抜けするほど安いので、とりあえずホッとした。 いろいろ機能を聞いて、母は¥8800のミシンに決めた。 「こんなに安いなら、まあ・・・私が(お金を)出すよ」と言う。 「あら、そう?ありがとう」と涼しい顔して私はお礼を言ったが 母の給料と父の年金の額を知っている私は、 「当たり前じゃあ~!!ぼけ~!私の稼ぎより遥かによっぽどいいだろうがああああ」 と内心吠えていた。私達母子家庭の親子にタカらなくても十分生きていけるだけもらっているのだ。 次はアイロンと夏物の服が買いたいと言うので、ジャスコやら近所の量販店やら、 5,6軒は付き合って廻っただろうか。 最後はまた違うジャスコに行って買い物をした。 もう疲れて私はどうでもよくなった。 しかし、私って付き合い良いよなあ、と自分でも思う。 ちなみに私はウィンドウショッピングは大嫌い。 いつも買い物は必要な物しか買わず、短時間で済ませる。 今日私が買った物は、キャットフードとネコの爪とぎである。 母が私にガソリン代の代わりに¥1000の服を買ってくれた。 有り難く貰っておこう。 実家に母を送っている頃には5時を回っていた。 母は帰りが遅くなると父が機嫌を悪くするのではないかと心配し、 「でも、いいや。あやかがミシンを欲しいと言ってたから遠くまで買いに行ってたと言う事にしておけば。 だから、これはあやかと半分こで買った事にしといてよ。 そうすればお父さん(父の事)が『また余分な物を買ってきやがって!』と言っても、 あやかと半分ずつと言っておけば黙るから」 と口裏を合わせるよう求めてきた。 「はいはい」と適当に返事をしておく。 私は母のこういう所が嫌いだ。別に言わないけど。 しかし。だからこそ私は旦那にいちいち了解を得なければ 何も出来ない、決めれないという人生だけはイヤだと思ったのだ。 私は旦那や孫に責任転嫁をするような生き方だけはしたくない。 そして、その醜さを十分この人は教えてくれた。 私はどんなパートナーと出会っても 「私が欲しいと思ったから買ったんだ!」 と胸を張って堂々と見せれる、そんな関係でありたい。 そして何事も正面から相談したり、お願いが出来る関係でありたい。 こうしてコソコソと口裏を合わせなければ、自分で稼いだお金を使えない関係など私はしたくはない。 いつも母を見る度、心に誓う私だった。 PR |
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2006 08,09 23:57 |
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ホントは昨日母の誕生日で、メシでもおごってやるかと思ったが、あいにくの台風だったので、
今日行く事にした。 夕方実家に電話して、父母とすぐるを連れて4人で行く事に。 あやかはバイトなのだ。 とりあえず焼肉屋に行く。 ここは寿司やラーメンもあるので、歯が悪く偏食のオヤジでも大丈夫だろうと判断したからだ。 母の誕生日プレゼントなんだけど父中心に物事を考えるのだから、何だかなという感じ。 でも二人とも上機嫌だから、まあいいや、と思う。 母とは何回か来た店だが、父は初めて来たので、とっても嬉しそう。 幸い悪い歯を一昨日抜いたばかりで、やっと今日からご飯が食べられるようになったんだ、と父が言う。 「そりゃあ、ラッキーだったね」とビシバシ肉を焼く私。 この4人はあんまり肉を食べない。 私はタンばかり。これは父母には固くて食べられない。 すぐるはエビばかり焼いて喰う。 母は寿司のみ。 父は柔らかい肉ばかり選んで食べている。 時間ギリギリまでデザートを食べていたすぐる。 吐きそうになるまで、つい食べてしまった。 これはきっと太るに違いない。 なのでカラオケに行こうと提案すると、オヤジも「よーし!」と言って乗ってきた。 勿論これはオヤジにおごらせた。 母は内心躊躇したに違いない。 以前から、父は母の声が悪いだの音痴だの下手だの、けなしまくっていた。 なので母は父の前では決して歌わない。 カラオケをしたい時は私とこっそり歌いに行くという感じだった。 ところが。今日は父よりも先に母はマイクを取った! 「何言われても良いから今日は歌うよ!!」 と、宣言したではないか。 おおっ!!強くなったなあ、と思ったものだ。 しかも!今日は夫婦二人でデュエットしてるではないか!!! どうした!!!天変地異でも起こるのか!?台風は去ったばかりだぞ! でも水を差してはいけないので黙ってる。 「懐かしいねえ・・・」と二人で「高校三年生」とか「美しき十代」とか歌ってた。 あんまり上手くない二人だが、仲良く歌ってる姿は微笑ましい。 母の誕生日と言う事もあってか、父はかなり気を使ってあげていたようだ。 父も随分優しくなったなあと思う。 すぐるでさえ「じいじ、丸くなったねえ!」と感心する位だ。 あの二人は演歌と昭和の懐メロばかりだが、私とすぐるはアニソン三昧。 鋼の錬金術師の「リライト」から始まって、ハンターハンター、ひかるの碁、そこからだんだん古くなって ガンダム「哀、戦士」「めぐりあい」それからすぐるの大好きな「ダンバイン」「ケロッコデメタン」 「ミクロイドS」と何ですぐるは知ってるの?と言いたくなるような選曲ばかり。 しかも私にも歌えと言うので仕方なーく、ホント仕方なく・・・ 嘘です、かなりノリノリでした。 ついでにオヤジもかなりノリノリで、すぐるに拍手や声援を強要していた。 すぐるはこんなノリの良い爺さんを見たのは初めてだろう。 しかもこんなにカラオケ好きとも知らなかったようだ。 しかし、私は知っていたのだよ。むふふ・・・。 カラオケが終わり、帰る前にトイレに寄った。 そのトイレでは、私は決まって左側のトイレを使うのだが、あいにく使用中だったので、右側を使う事にした。 イヤだなあ・・・と思ったが、案の定、女の霊が居たよ。 トイレから出るとやっぱり憑いて来る。 女の霊を憑けたまんま、車を飛ばし、父母を家まで送り届ける。 すぐると二人っきりになった途端、本音の会話が。 「私、カラオケのトイレで幽霊つけて来たよ」 「あ、オレも!男子便所にも居てさー」 家に帰ると、先に帰って来ていたあやかも 「また幽霊拾って帰って来ちゃった~」と言ってる。 で、3人お互い背中を叩き合い、線香をつけ、大除霊大会となった。 やっぱ、うちってこれだよなあ~と笑えたのだ。わははー! しかし誕生会やって、よかったよ。 母も喜んでいたし! 「親孝行、したい時には親はなし」 みなさん、親御さんが元気なうちに親孝行をお勧めしますよ! |
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2006 07,04 22:52 |
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さて今日も恒例の親孝行である。
母限定だけど。 今日は「花を植えたい」と言うので、量販店へ行き、植える花を一緒に選んだ。 父は花が大嫌い。母が花を植えると「うるさい」とか「目障りだ」とかグチグチ言う。 以前の母だったら、たちまちシュンとしてイジイジしていたが、最近ようやく強くなった。 「あんたが競艇止めたら、私も花を止めてやるよ!」と、言える様になったのだ。 すると「なんだあ」と言いつつ、父もそれ以上言わなくなった。 それまで母は勝手に我慢しては弱い所に当り散らすという事を繰り返していた。 時間が掛かったが、母もやっと「言いたいことをいえば良いんだ」と分かったようである。 母自身も「ちょっと自分に自信がついた」と言っていたしね。 変われば変わるもんだ。 以前母はこの自信の無さから、卑怯な振る舞いが多かった。 過去2回、私は自分の親と同居していたが、最初の同居の時は私がノイローゼのようになってしまった。 その時は離婚してすぐの時だが、色々親と揉めた。 私の心が癒えていない事や、父親の口汚さや、母親の愚図、様々な事が原因だったが、同居を解消した一番の理由は母親の子供達への八つ当たりだった。 とにかく因縁をつけてはなじる、たたく、お皿を投げる。 その時の恐怖は未だに子供達の脳裏に焼きついている。 学校へ行くまでは半ばいじめのようについてまわり、ネチネチと嫌味を言う。 それからと言うもの、あやかとすぐるは朝ご飯を食べると登校途中で吐くようになり、癒した今でも朝は食べない習慣が身に付いてしまった。 私や自分の旦那に言いたい事を勝手に我慢しており、当時の職場で受けているいじめのストレスの解消に、 自分より弱い孫を使ったのだ。 私は自分の親から自分の子供を守らなければならないのが、悲しくて情けなかった。 で、わずか半年で実家を出た。 2回目の同居は、私のヘルニアで生活が不安定になった為だった。 この時母に「2度と子供達に八つ当たりしないで」と約束させた。 確かにその約束は守ったが、今度母の八つ当たりのはけ口は、遊びに来た子供の同級生達に向けられた。 当時すぐるは小4だったが、近所の大人しい子が遊びに来た時、母の恰好の的になってしまった。 その男の子は父子家庭の子だ。それをこともあろうに 「あんたはお母さんが居ないから躾がなってない。私が躾けてやる」 と言って何度も挨拶をさせたり、その癖 「はあ?聞こえないねえ」 と言って、嫌味を言ったり、その子の父親の悪口を言ったりと、さんざんやらかしてくれた。 私がパートから帰ってくると、すぐるは泣いており、 「ばあばが・・・」と母の悪行を白状したのだ。 私が母を問い詰めると 「なんでそんなに怒る?あんたの子にはやってないからいいじゃん」と言うのだ。 もう怒りを通り越して呆れたのだった。 それから一ヶ月私は母と口を利かなかった。 母は泣いて私に許しを乞い、 「あんたがそんな事で怒ると思わんかった。よその子だから良いと思ったのに・・・」ときた! だから事ある毎に子供達は 「お母さん、あの人達に育てられてよくまともに育ったね!お母さんはそれだけで偉い!!!」 と言うのだ。情けないがこれが私の母親だ。 しかしこれが私に大きく影響をもたらした。 より真剣に将来を考えるようになったからだ。 それから間も無く私達は実家を出て、セラピストになったわけだ。 私の親がもっと利口だったら、もっと仲良く同居出来たかもしれない。 しかし今の私のように自立はしなかっただろう。 子供達は目覚める事もなく、もっと穏やかな人生だったかもしれないが、今ほど面白くもなかっただろう。 少なくとも私は後悔はしていない。 両親に絶縁状を突きつけたのも1度や2度ではない。 しかし、その度関係は良くなってきた。 母もやっと穏やかで楽しい生活を手に入れたのだろう。 だからこそ最近になって過去の自分に罪悪感が湧いてきたのではないか。 今日もポツリと 「今では自分でも明るくなったと思う。前は随分いじけた考えをしてたけど・・・何で前はあんなことをしてたんだろうねえ・・」 と言うのだ。母なりに後悔をしているのではないか。 でもこの人の振る舞からは、相変わらず卑怯な匂いを感じる時が多々ある。 しかし直接誰かを傷つけているわけではないので、見て見ぬ振りをする。 人の根本はそうそう変わらないものだ。それでも成長を感じるから嬉しい。 2度の同居で子供達もよりシビアな目を持つ事が出来た。 何よりたくさんの方達に会えたしね! 私ほど幸せな人はいない、とさえ思える。 色々あったけどこうして穏やかな親子の時間を取り戻せて良かったと思う。 そう思いながら、花の植え替えを手伝っていた。 |
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2006 07,01 22:47 |
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今日は弁天島の海開き、花火大会だ。
実家に行ってタダ飯が食べれる日である。 子供達は、食べるだけ食べたら、さっさと友達と出掛けてしまった。 きっと会場である海浜公園に行くのだろう。 私は正直躊躇する。 あんな狭いところで何万人もの人がすし詰め状態でいるのだ。 以前あわや圧迫死か?と思うような目に会っているからね。 3年前、この仕事を始めたばかりのこの花火大会の日、 私はすぐると親友の子(下の男の子)Uを連れて、海浜公園まで花火を見に行ったのだ。 当時は2人とも小5だったな。 そうしたら、物凄い人でたちまち身動きが出来なくなってしまった! 30分ほどそういう状態が続き、そのうちすぐるが 「酸欠でクラクラする・・・」と言い出しヤバイ!と思ったのだ。 大人の私でさえあちこちからギュウギュウ圧迫され、息苦しかったのだ。 離れ離れにならないよう私はすぐるとUの手を握っていたが、あわや引きちぎられそうな勢いである。 しかも大事な親友の子を預かっているのだ。何事もあってはならない。 「すぐる大丈夫?Uは?息出来る?」 と怒鳴り合いに近い声を出し、確認する。 そのうち私自身も酸欠で眩暈がし、ヤバイと思った時 「そうだ!私には守護霊という味方がいるんじゃないか。どうして思い出さなかったんだろう。」と思い、 「おじいちゃん!子供達を守って!」と心の中で叫んだ。 その瞬間、突如目の前の群衆の中に道が開けたのだ。 ビックリしたなあ。とにかく私達は抜け出し、新鮮な空気を吸う事が出来たのだ。 もう3人で「よかった!よかった!」と、抱き合って喜んだよ。 そんな事があってから私は公園内には行かないと決めたのだ。 さて一人残された私は両親のお守りである。 家の向かいに縁台を置き、3人で遠くの花火を見る。 主に私が喋り、母が笑ったり相槌をうったり、で父がニコニコしながら時折話しに参加する。 傍目から見たら仲の良い親子に見えるだろうね。 まあ、実際今は仲良いし。 子供の頃には想像だにしなかった事だ。 私が何か言えば父はとやかく言い、突っかかってきたものだ。 私も父の一番弱い所を突いては、ミゾを益々深めるといった事を繰り返していた。 それが今はどうだろう。 私の軽い冗談を笑って聞いている。 むしろ父の背中から愛情を感じ取れるのだから、時の流れって凄いなあと思う。 昔の父を思い返しても、やはり父は身勝手だったし、愛情のかけらも感じない。 しかし、意地悪親父役が終わったのか、年を取ったからなのか、何が父の転機になったのかは 私には分からないが、去年から本当にやさしくなった。 私にも子供達にもだ。それはとても有り難い事で、嬉しい。 ここまで辛抱してきたから、親の愛情をやっと感じる事が出来るんだよね。 若い時、早まったマネをしなくてよかった!って思う。 そんなこんなでペチャペチャ喋っていたら、いつの間にか花火は終わっていた。 あれ?私花火見てたっけ?覚えてないよ! まあいっか。どうせ来年もやる事だし。 オヤジの笑った顔を見たから良しとするか。 そんな訳で、私なりに楽しかったのだ。 |
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2006 05,23 23:55 |
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今日も恒例の親孝行の日である。
といっても向こうも仕事なので夕方からである。 「今仕事が終わった」という電話が来たので、迎えに行く事にする。 私の実家は国道一号線を挟んで数百メートル先の所だ。 歩いていく事も出来る距離だが、決まって母は「遠くて行けない」と言う。 毎日小一時間ウォーキングしているにもかかわらずだ。 私が結婚している時も駅の前のマンションに住んでいたが、やっぱり「遠くて行けない」と言った。 一人で電車やバスに乗るのが怖いのだ。 「だってみんながジロジロ見る」だの「切符の買い方が分からん」だの、若い時からそういう人だった。 思えば私は3~4歳の頃から、この頼りない母を冷静に見ていた。 こんな田舎の数件しかない店なのに、店を間違えたり、入り口を間違えたりと、とにかく色々やらかしてくれた。 私は恥の掻き通しだったのだ。 母はたまにパートに行くと先々で必ずと言って良いほどいじめられた。 未だに親戚には母は馬鹿にされている。 まあ・・気持ちは分かるけどね。何か頼めば「分からん」だの「出来ん」だのだし、注意すれば「どうせ・・」と言ってイジイジしてるし。 あれじゃあ、あの根性の悪い親戚のババア・・オバサマ方でなくても頭の一つも張り倒したくなる。 私は「うちの親ってダメなんだなあ・・」と気付いたのが九歳の時だった。 ちなみに父も同じようなダメ人間だ。 なぜ母が火曜か水曜にうちに来るのかと言えば、父がその日にマージャンに行っていて夜中まで帰って来ないので、うちに羽を伸ばしに来るのだ。 父も65歳だが、大分丸くなった。 今でも競艇とマージャン三昧だが昔の様に人に八つ当たりをすることはなくなった。 昔、父の八つ当たりのはけ口は決まって私だった。 「なんだあ、その面は・・」に始まって、可愛げが無いとか、お前なんか出て行けとか毎日のように言われ続けた。 でも一番辛かったのは誰も私をかばってくれなかった事だ。 母は決して矢面に立たない。私はその卑怯さを憎んだ。 でも今なら分かる、何故この親を選んだのか。 この親の子だったからこそ「ああなりたくない」一心でここまでこれた。 誰も頼れなかったからこそ強く自立を望み、独立した生活を送ることが出来たのだと思う。 何より感謝が出来ることが嬉しい。 あの時の孤独があるからこそ、今どんな方に会っても嬉しいと思えるのだ。 私もやっと、この人達がいるから今の私にして貰えたんだなあと感謝が出来るようになった。 ある意味、私の親は良い親なのだ。 今、母も良い職場(シラス加工やってます)に恵まれ、父にも少しは意見も言えるようになった。 母にとって、娘に孝行してもらってる事や、大きな孫が何人かいる事がかなり自慢らしい。 今日も「私は幸せだ。子供や孫はお金で買えない」と言っていた。 母からこういう言葉が出るようになるなんて! 変化とは何て素晴らしいんだろうか、と思う。 時には辛抱や忍耐を強いられる事もあるが、でも必ず報われる、無駄ではないのだ。 こうして私は、自分自身、親、子供達の成長が嬉しくてたまらない。 |
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