2024 09,20 15:27 |
|
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
|
2008 11,22 20:33 |
|
15歳の続きです。たいして面白くないでしょうが、お付き合いくださいね。
この頃になると学校内でのいじめは落ち着いたが、家庭内では相変わらずゴタゴタしていた。 とにかく両親の仲が悪い! 母親の、夫への愚痴 文句、死んだ父親への恨みなど、全てのうっぷんを私にぶつけるのだ。 私はオカンの愚痴の聞き役を 毎日毎日する羽目になる。 ある日、両親が喧嘩をし、オカンが「別れる!」と、言い出した。 毎日の愚痴にうんざりしていた私は、 「じゃあ、別れて。私は高校なんかいいから。働いてお母さんを助けるから。」 と、言ったのだ。 それであわよくば転校出来ればいいな と思ったし、最悪な父親からも離れられる とも思ったのだ。 ところが、人生はそう甘くない。 次の日、オカンが手のひらを急に返し、 「やっぱり別れるの、やめたでね。まあ、あんたは高校へ行きな。」 と、言った。何のことはない。怖くなったのだ。 そして自分の勇気がないのを「あんたらがいるから、我慢してやった」と、人に責任をなすりつけ、自分を正当化して、被害者でいるのだ。 それから 私の母親を見る目は一変した。 それまで母親にたいして、心から同情し かわいそうだと思っていたが、 「なんだ・・・この人、ずるいだけじゃん。」 と、一瞬で冷めてしまったのだ。 それからはオカンがどんな愚痴を言おうが、聞くのを一切止めてしまった。 そのお陰で、どう振る舞えば人をがっかりさせるか、よく分かった。 それで私は離婚出来たのだから、ホント オカンには感謝してもしきれないね。 こうしてうちのオカンのお陰で、私は自分らしい人生の一歩を踏めたのである。 ま、そんな経緯があって、私は早く家を出たくて出たくて・・・。 自立を意識し、家事をもっと積極的にやるようにしたのだ。 オカンは単純に、うちの子はいい子だって、喜んでいたけどね。はははー。 でも私は、内心画策していたのである。ほほほー。 やっぱり 居心地の悪い家は自立に最適だね! 笑 PR |
|
2008 11,19 19:00 |
|
かなり久しぶりなんだけど・・・私の過去 15歳の続きを書こうかなあ・・・。
15歳といえば、中3。 中3といえば 受験だねえ。 この頃の私は、それなりにまあまあ勉強していたが。それにしても成績はどんどん下降線をたどっていたのだ。 今まで外した事のないテストのヤマを外すし、凡ミスは連発するしで、結果は悲惨だった。 それまで学年では上位にいて、女子ではいつも一番だったのに・・・。もうずるずるなのだ。 これは当時の親の「念」の悪さが禍したらしく、「全部 外してたね!」と、あやかに言われっけ。 道理で・・・なんか空回りしてた訳だ。もちろん、私自身もどっちゃり 悪霊を憑けていたのもある。 そんな訳で、担任から「進学先はどうする?」と、言われ 「近い所で良い。私の成績で行ける所で。」 と、かなり適当に進路を決めた覚えがある。そこは近所の進学校だった。 で、家に帰り、母親に「先生とK高校に決めたから。」と、報告した。 そうしたら!母親は開口一番 「困る!進学校なんて行かれたら!大学に行かせてって言うに決まってるから。うちにはそんなお金、ないでね!」 と、非難めいた口調で言われた。 ええ~~~?って驚いたよ。そんな理由で?って感じ。 近所の公立校なんだから、親孝行だと褒めてもらいたいくらいなのに。 更に母親は言う。 「あんたは私の子なんだから、馬鹿に決まってる。隣のA高校(当時一番ランクの低い公立校)にしな。」 だって。アホか~~~!!!これだからバカな親は困るよ。 なんでわざわざ遠い高校に行って、それもレベルを下げて行かなきゃいけないんだ? 私は高校のランクには興味はなかったが、本当に自分と対等に話せる頭の回転の早い友達が欲しかったのだ。 本をたくさん読んでるような、知識と良識のある大人の友達が欲しかったのに。 当時の中学の同級生の子供っぽさに辟易していたのだ。 A高校に行きそうなメンバーなんて・・・大体想像が付くよ。ああ、いやだ。もう、うんざりだ! 私はk高校に行く為に・・・これだって本当は大して行きたくなかったのだ。ただ高校は行かないといけない、という思い込みだったに過ぎないのだ・・・それで高校の授業料だの、入学金だの、授業内容だの、進学率 就職率を調べ始めた。 それをもとに母親を説得にかかった。 「お母さん!お母さんが行かせたがっているA高校の授業料より、k高校の方が月額千円安いよ!しかもA高校に電車で行くと、交通費が掛かるけど、K高校は掛らない。」 「だってだって進学が・・・困る・・・。」 アホな母親はまだ抵抗する。 「それから進学校に行ったって、みんな進学する訳じゃないんだよ?就職するのもレベル高い方が有利なんだよ?」(これは当時だから。今は就職は自力で探さないとありません) それでもアホなうちのオカンは「でも」だの「だって」だの口ごもる。 要は自分の「範疇」を超えていく娘が怖いだけなのだ。 しかし。 さすがの忍耐強い私の堪忍袋の緒が切れた。 だって、大して行きたくもない高校へ行く為に、母親にプレゼンしてんだよ? なのに「だって」って、どう言う事だ?!そりゃ、私だって「プチン!」とキレる!!! 「もう!いい!!!そんなに言うなら、高校は行かん!勝手にしろ!!!」 そうしたらオロオロしながら、アホなオカンはこう言った。 「そんなあ・・・世間体が悪いで・・・高校は行って。」 だってさ。馬鹿じゃん。 「じゃあ、k高校しか行かん!」「分かったよ」 これで母親は折れたのだ。全く!こいつの抵抗している意味が分からん。 これだから頭の悪い親を持つと、子は苦労するのだ。 わざわざ子供が、近所の公立校にすると言ってるのに・・・。ありがたく思え、って感じ。 私はその後、高校卒業と同時に結婚したが、一番下の妹は同じ高校に行ったあと、大学に進学した。 とてもショックだった。 私には「大学にはやらないよ」と、言われていたのに・・・妹には「ポン!」と出すんだ。 本当に妹とはあからさまに差をつけられていたな。 でも今思うと、それでよかったと思う。 妹は広島大学に進学し、そっちでチヤホヤされ、留学を2回し、また海外でチヤホヤされ・・・ 結婚もした事で、ますます天狗になった。 「私はお姉ちゃんみたいに、人生には「失敗」(離婚を言ってるのだと思います)してませんから!」 と、私を笑う。今でもその言葉は忘れない。 この仕事を始めた事を打ち明けた時にも 「お姉ちゃん!でたらめばかり言って、裁判沙汰にならないようにね!」 と、嘲り笑われた。本当に悔しかった。 でも、こんな人になっては行けなかったのだ。 だから私の人生は上手く行かない事だらけだった。 それがより深く悩み、考え、感じ、自分らしく生きれる私にしたんだと思う。 昔の私はたくさん「思い込み」があった。 一つ一つ殻を脱いで、ずいぶん楽に生きられるようになった。 やっぱり私の人生はこれでよかったと思う。 |
|
2008 09,22 23:05 |
|
今日は何を書こうかなあ・・・。
久しぶりに自分の過去の事でも書きましょうか。 まあ・・・私の過去なんて、ねえ・・・知りたくもないでしょうが。笑 しかし、一番苦しかった時期の事でもあるので、やっぱり続きを書きたいですね。 と、言う訳で、「過去」の続き、15歳です。 15歳というと、中3になる訳だが。ある意味、辛かった時期のピークが過ぎつつあった。 登校拒否だった妹が学校に行き始め、勿論登校拒否の原因だったバスケ部も辞め、妹にとっても平穏を取り戻した時でもあるのだ。 それと共に、下級生の陰口も止まった。 私に対する無視は相変わらずだが、無視やからかいのターゲットが他の子に逸れた事もあって、ちょっとだけど沈静化しつつあった。とはいっても、みんなの冷たい態度は変わらないんだけど。 でも少しは和らいでいたかな。 私の中でも変化は起こっていた。 もう気にしない事にしたのだ。 私は正しいのだから、何も気にする事はない!毅然としていよう! これが、みんなから「気取ってる」とか「優等生ぶってる」とか、言われたけどね。 だから何だと言うのだ! どうせ言う奴は、何をやっても言うのだ。 一度付けられた「嫌われ者」の洛印は、そう簡単に消せないのだ。 でも、そう思えたら、とても楽になった。 よく、お客様の悩みの中で「嫌われるのが怖い」と言っておられる方がいる。 そうして旦那や子供の顔色を伺い、媚び、結局馬鹿にされ、軽く扱われてしまうのだ。 「嫌われたくない」と思いつつ、嫌われる方向へ行ってしまう。何んとも虚しいね。 でも、嫌われる事を恐れている限り、人の目が気になり、自分の人生が行けない。 私は、きっと自分の人生を行かなくてはいけないから、「嫌われる恐れ」を手放させる為に、このような「無視」やら「いじめ」やら、呼んだんだろうね。 理解の無い両親も然り・・・。 「それでもお前は自分を信じていくのか?」 自らをそう問うかのように、自分自身がたくさんの試練を用意したんだろう。 負けてしまうのも自分。乗り越えていくのも自分なのだ。 こうして「負けず嫌い」の私が出来あがっていったんだよなあ。 良く出来てるよ、人生って・・・。うんうん・・・。 さあて・・・、明日の事を考えるとワクワクする。 仕事、猫、それから買い物に行って・・・。 人生、投げ出さないでよかったよ。明日も楽しくしよう! |
|
2008 08,09 04:40 |
|
今日(日付的には昨日ですが)、2008年8月8日はオリンピックの開会式の日であり、母の66回目の誕生日でもある。何ともおめでたい事だ。
今日は母の誕生日にまつわる話を書きましょう。 まあ、つまらないとは思いますが 笑 心の広い方はお付き合いしてくださいませ。 母の本当の誕生日は、7月31日である。 当時は昭和17年、戦争中だった。 母は8人目の子として生まれたのだ。 一番上の兄は当時18歳。母が生まれて間もなく、徴兵され、戦死を遂げた。 母は生まれて一時間後に、生母を亡くした。 産後の出血が止まらなくて、気付いたらもう死んでいたらしい。 当時は戦時下で薬がなく、今だったら抗生物質一つで治るものだ。 戦争の悲しさである。 生母を亡くし、ミルクも手に入らなかった当時では、お腹が空いて泣いてる赤ん坊に重湯をあげるしかなく、栄養失調でみるみる痩せていったようだ。 赤ん坊を諦めかけたところに、生まれたという噂を聞いた夫婦が、その赤ん坊を引き取りに来たのだ。 それが私の祖父母なのだ。この二人ももう亡くなっている。 そしてその日が、今日の八月八日なのである。 実は、母の実の両親と義理の両親は、同じ漁師仲間で顔見知りだった。 子供が欲しくて仕方がないのに、とうとう子供に恵まれなかった義理の両親。 片や、ボコボコと子供が出来る夫婦。 ある日、義理の父親が港で網を繕っていた。 そこへ、母をお腹に宿していた生母が、大きなお腹で歩いていたら、その網につまづいて、転んでしまった。 妊娠八カ月ぐらいだそうだ。 慌てた義父は「おなかさん(生母の名前)大丈夫かい?」と、声を掛け、ついでのように 「おなかさんはいいな。子供がたくさんいて。」 と言う話になったようだ。おなかさんは 「あたしゃあ、もう八人目でうんざりだよ!よかったら、あんたにやろうか?」 「おお、おくれ。」 と、いう風に、まるで犬や猫をあげるように、簡単な口約束を交わしたらしい。 何と言うか・・・さすが昔の事だね! その事を母は「まったく失礼しちゃうよね!私は犬や猫じゃないよ!」って、言うんだけど。 まあ、今ではもう「笑い話」になっている事だが。 ところが、その口約束が功を奏したのである。 もし、あの口約束がなかったら、母は誰にも引き取られずに、きっと栄養失調で死んでいただろう。 おなかさんは、本当に無意識に、自分の死を知ってか知らないでか、義父母に末っ子を託して亡くなったのだ。 勿論義父は本当に子どもを貰い受けるつもりでいたから、手に入りにくい、高価なミルクをどこからか、手に入れて来たのだろう。 こうして母は生きながらえる事が出来て、今の私も生まれる事が出来たのである。 母が生まれて、一ヶ月後(くらい・・・かな?)、当時18歳の長男が徴兵された時 「最後に妹を抱きたい」 と言ったので、義父母は駅まで、赤ん坊だった母を抱いて見送りに行ったのだ。 長男は母を抱くと、泣いて別れを惜しんでいたようだ。 まだ、18歳なのに。二度と帰って来なかったのだ。 今の18歳が、自分の死を覚悟する事が出来るだろうか。 もう帰って来られないと、覚悟を決められるのだろうか。 それが、自分の為ではなく、ただ「国」の為に。命を投げ出す事が出来るのか? 誰が逆らえるだろう。 私達は、幸せな「時代」を選んでいるのです。 何度もここに書きますが、私達は幸せなのです。 薬がある、物がある、コンビニに行けば何でもある、自由、平和、平等・・・。 でも恵まれ過ぎていて、見えていない事が多いのです。残念ですね。 先人達の供養に、お墓も仏壇もいらないと思いますが、先人達の歴史を知り、偉業を知る事で「供養」になると思います。 この平和な日本に生まれた事を、是非誇りに思えればいいですね。 |
|
2008 07,21 23:33 |
|
すいません。昨日の続きです。くどくど・・・くどいですか?笑
でも、もうちょっと付き合ってくださいな。 私なりに答えを出した頃、私に一つの転機が訪れた。 これが私にとって、「支え」になった事は間違いない。 ある日、テレビを見ていた。 内容は・・・宇宙飛行士が宇宙に出て行くと、宗教に目覚めて行く・・・と言う内容だった。 そこには真黒な宇宙に浮かぶ地球が。 それを見た瞬間。 私の中に何かが降りた! 「宇宙」と繋がった瞬間だ。 これを機に、私は「目覚めた」。二週間だけだったけど。 でも、物凄い感動だった。何もかも、「分かった」からだ。 自分の今の目覚めが「多分二週間もすれば、覚めるだろう」と言う事も含めて。 「全て自分が引き寄せてるんだ!何もかも!私のプライド。意地。不器用さ。態度の悪さ・・・。」 それから、私の両親の未熟さと、愚かさ・・・。 「お父さんは子供のままなんだ!お父さんは本当は寂しい人なんだ!満たされていない人!!!」 当時の父の憤りは、全て私に向けられていたが、それは母のフォローがまずい為に、歪んだ形で出ていたのだ。 すべてを理解した私は、その日から父への態度を一変させた。 反抗を止め、父に歩み寄る事にした。 父は私の変化に驚いていたが、でも喜んでいた。 「そうか。お父さんはこんな私でも、求めていたんだ。ただ私が思い通りにならないから、子供のように、妹に当てつけてるんだ!」 父も母も、未熟な若い魂だが、それを理解出来た事で、ちょっと楽になれた。 学校での事もだ。 私の「優越感」を感じ取るから、皆が反発するのだ。 だから「謙虚」な態度に変えた。「媚び」にならない程度に。 それから「自分」の為に行動し続けよう、と言う事も明確にした。 きっと将来、役に立つ! それから少しずつ、状況が楽になったと思う。 「嫌われてもいいや。」というのも、楽にさせてくれたけどね。 この目覚めのお陰で、「自分」がある程度、確立されたのだ。 でも、まだ完全な目覚めではない事は分かっていた。 私の中のたくさんの「固定観念」や「思い込み」が邪魔している事も、何となく解っていたのだ。 でも、取り方が分からない。どうしたらこの膜のような私の固定観念が取れるのか・・・。 結局自分の固定観念に気付けたのは、それから20年経ってからだが。 それから間もなく、私は再び元の自分に戻った。閉ざされたのである。 でもあの新鮮な感動と驚き、様々な情報がいっぺんに降りてきた状況・・・ 今でも忘れられない! そしてあの体験が、その後あやかが目覚めた時に「理解」出来たのである。 あの擬似的な目覚めは、当時の私の救いにもなったが、娘あやかを理解する為にも貴重な体験だったのである。 これは誰にも言っていない。私の子供しか、知らない事だ。きっと誰も信じないと思うから。 あの目覚めから、目覚めは覚めてしまっても、私がいつでも自分の中に宿る「神」を感じると、それだけで支えられた。私は一人じゃないって。 神を感じると、胸の中が暖かくなってくる。 私は支えられている。それだけで十分だった。 あれは孤独な私を支えるために、神が救いの手を差し述べてくれたのだ。 私は本当にラッキーだったのである。 |
|
忍者ブログ [PR] |